下落合を縦断して大学へ通っていたころ、デザインがモダンすぎて、あるいはメンテナンスが行きとどきすぎて、大正期から昭和初期の建築だとは気づかなかった邸宅が何軒かある。先日、こちらでもご紹介した、遠藤新設計創作所によるステキな小林邸Click!にいたっては、つい最近まで気がつかなかった大ボケぶりだ。もうひとつ、独特な建築角度と超モダンなデザインで強く印象に残っている邸がある。日立目白クラブClick!の近くに建っていた、早稲田大学教授で哲学者の帆足理一郎邸だ。学生時代のわたしは、もちろんそこが旧・帆足理一郎邸だとは気づかなかった。
 なぜ印象深いかといえば、建物の角度が南北に走る道路に対して、並行ではなく斜めだったからだ。しかも、普通の西洋館ではなく立方体のかたちをしていたから、よけいに斜めが気になったのだろう。周囲には、スパニッシュやイギリス風の洋館、あるいはいかにも昭和初期を思わせる和洋折衷住宅が多かった中で、戦後に数多く建てられた“あたりまえ”のモダニズム住宅の姿をしていた。だから、当時のわたしは、てっきり戦後の建築だと思いこんでしまった。ところが、帆足邸は1927年(昭和2)ごろに完成した、実は当時としては最先端をいく建築デザインだったのだ。
 
 1928年(昭和3)に発行された『主婦之友』2月号には、新築なった帆足邸の様子が紹介されている。応接室と子供部屋兼夫人の仕事部屋に添えられた、キャプションから引用してみよう。
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 目白の奥深く、静かに思索に耽つてゐられる、早大教授帆足理一郎氏の御新宅であります。御夫妻の趣味、生活に合せて設計されたものとは、言ふまでもなく、家そのものが語つてゐます。上図は応接室で、明るく温かく、簡素で、応接室などゝいふよりは、家族の談話室とでもいつた方が、相応しい感じのする、何となく親しみのある室です。ストーヴの前で編物をしてゐられるのはみゆき夫人で、傍のはお子様です。下図は、子供部屋兼夫人之お仕事部屋で、可愛い寝台とミシンがおいてあります。併しお子さんの面倒を見ながらのお仕事ですから、どこへでもお仕事を持ち廻り、どこでゞも自由に読書ができるやうにといふのが、夫人の主義であります。  (同誌「子供本位の明るい家」より)
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 紹介された両室とも洋間で、どこででも自由に仕事と読書ができるようにという、みゆき夫人の意向が、設計時に強く反映されたようだ。みゆき夫人は、この取材で『主婦之友』編集部と親しくなったものか、以降同誌へ料理のレシピを掲載するようになる。
 
 なぜ建物が、北東から南西にかけて斜めに建てられたのかが、「下落合事情明細図」(1926年・大正15)あたりを見ていても不明だったのだけれど、「火保図」(1938年・昭和13)を見てすぐに納得した。帆足邸の敷地が、ほぼ二等辺三角形のかたちをしていたのだ。だから、南側へ庭園のスペースをできるだけ広くとって自宅を建てようとすると、必然的に二等辺三角形の底辺に沿った建物となっていまう。独特な敷地の形状をベースに、土地を最大限に有効活用したのが、“斜めの館”=帆足邸の秘密だったのだ。
 帆足理一郎というと、哲学・思想関連の数多い著作よりも、大学で教育学を専攻した学生には、ジョン・デューイの『教育哲学概論』をはじめ、彼の著作の多くを和訳した翻訳者としてのイメージが強いのではないだろうか? 早大の講義記録をひもとくと、ほぼ一貫して哲学概論を教えているけれど、日本へデューイを紹介した教育分野の先生のイメージが色濃いような気がするのだ。
 
 わたしが学生時代に、知らず知らず見あげていた“斜めの館”こと旧・帆足理一郎邸だが、そのころには女子寮として使われていたそうだ。かなりシビアな管理人がおられたらしく、わたしはそのとき、いまのようにカメラを手についフラフラと好奇心を起こさなくて、ほんとうによかった。(^^;

■写真上:左は、1932年(昭和7)現在の帆足邸。右は、駐車場になっている近衛町の旧・帆足邸あたり。背後に見える森が、将軍の鷹狩り場だった御留山(現・おとめ山公園)。
■写真中上:左は応接室で、右は子供部屋兼夫人の仕事室。写っている女性は、みゆき夫人。
■写真中下:左は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる帆足邸界隈。いまだ、新邸は完成していなかっただろう。右は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる斜めの帆足邸。
■写真下:左は1936年(昭和11)の、右は1947年(昭和22)の空中写真にみる帆足邸。