以前、大正時代の最初期に建設されたメーヤー館の解体移築について、当サイトでも「さよなら、メーヤー館」Click!としてご報告した。落合福音教会(のちに「目白福音教会」と改称)の宣教師館として建てられ、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲にも奇跡的に焼け残り、地元では長い間シンボル的な建物のひとつとして親しまれてきた。近くにアトリエClick!をかまえた中村彝Click!も、何度かメーヤー館とその北側に建っていた英語学校の建物をスケッチClick!している。そのメーヤー館が、いよいよこの春に再築・竣工しようとしている。
 メーヤー館の新しい安息地は、千葉県内の某所。※ このうれしいニュースをお知らせいただいたのは、下落合に住まわれる建築家の方からだった。千葉県にお住まいの牧師さんが、下落合のメーヤー館(戦後は日本聖書神学校)が取り壊されると知り、なんとか保存できないものかと奔走されたあげく、いっそご自分で引きとろうと決断されたのが、一昨年からの移築計画の経緯。この牧師さんは、聖書神学校の卒業生でもあったのだ。実は、移築を決意した牧師さんの弟さんが建築家で、下落合で知り合いの建築家の方の後輩にあたる人だった。移築には弟さんも加わり、実測調査や館の図面化も行われ、メーヤー館の部材は順次千葉へと運ばれた。
 ※移築された方のご要望で、完成するまで所在地は明かさないでほしいとのことだった。
  
 メーヤー館が解体されてから、下落合ではさまざまなウワサが流れていた。「移築を前提とする解体のしかたではない」というのにはじまり、「解体ではなく移築としておけば、反対運動も起こりにくいだろうし・・・」とか、「暖炉の煙突が最後まで残り、その輪切りのしかたは移築ではない・・・」とか、「コンテナがいつまでも運ばれないので、移築予算が想像以上にキツイのでは・・・」とか、いろいろなお話がわたしの耳にも入ってきていた。
 この中で、最後の「移築予算が想像以上にキツイ」は、どうやら事実だったようだ。自治体や法人ではなく、個人レベルの費用で解体・移築のすべてをまかなうのだから、ほんとうにたいへんだったと思う。メーヤー館が壊され破棄されてしまうのにがまんがならず、どうしても残すために移築を決断された千葉の牧師さんに、改めて敬意を表したい。ちなみに、暖炉の煙突は移築が不可能だったため、やむをえず廃棄処分とされたようだ。

 
 少しでも費用を削減しようと、業者を頼まずご自分たちでペンキを塗ろうとまで考えられたそうだ。建築当初は、朱色の屋根にベージュの外壁で窓枠はホワイトだった。1970年代は、外壁が白で窓枠がグリーン、そして80年代以降は外壁が薄いグリーンで窓枠も濃いグリーンだった。さて、再生されるメーヤー館は、今度は何色で塗られているのだろうか? 下落合から千葉県までは、ちょっと出かけて懐かしいメーヤー館を見てくる・・・というにはかなり遠いいけれど、この世から完全に消滅してしまうよりははるかにマシだ。機会があれば、ぜひ写真を撮りに出かけたい。
 もうすぐ、メーヤー館がゆかりのある牧師さんのもとで、再びよみがえろうとしている。この春、竣工したあかつきには見学会も開催されるとうかがった。

■写真上:下落合に建っていたメーヤー館(旧・目白福音教会宣教師館)。
■写真中:戦後は、1946年(昭和21)5月より日本基督教団の「日本聖書神学校」として使われた。
■写真下:上は、メーヤー館の立面図。下左は1920年(大正9)の中村彝『目白の冬』(部分)、下右は同年から翌年にかけての『風景』(部分)に描かれた、アトリエ裏のメーヤー館。これらの作品が描かれた当時、まさに名前の由来となるP.S.メーヤー宣教師夫妻がここに住んでいた。