1931年(昭和6)の1月に発表された、洋画家・宮下琢郎が描く『落合風景』だ。正月に発表しているということは、実際に描かれたのは前年の1930年(昭和5)だろう。この作品をしばらく観ていたら、ほどなく既視感がわき、すぐにどこを描いたのかがわかった。わたしは、何度もこの道(実は右から左への下り坂)を歩いているし、左側の超モダンな邸宅は実際に目にしてもいる。もちろん、80年ほど前に生きていたわけもなく(^^;、このモダン邸は、実は写真に撮られているのだ。
 1940年(昭和15)ごろに撮影されたとみられる写真Click!には、手前の道路に改正道路(山手通り)造成用の土管や資材などがすでに並べられている。そして、作品に描かれた丘には、新たに建てられたとみられる大きな西洋館がいくつか建ち並び、画面の右枠外ではシャレたたたずまいの熊倉医院が開業している。宮下が描いた画面は、それよりも10年も前の風景ということになる。
 この作品と、1936年(昭和11)現在の空中写真とを比較すると、家々の配置がピタリと一致するのがわかる。すなわち、宮下はかなり正確に風景を写し取っているのだ。彼は、手前に見える谷底を右から左へと下る道の、反対側斜面の中腹にイーゼルを据えて描いている。当時、まだ東京美術学校の学生だった宮下のいた急斜面は、家が1軒もない広大な草地だった。この道路は、第二文化村の尾根筋の道から南へと下る、尻尾のように長く伸びた三間道路Click!のつづきだ。
 
 画面左手のモダンハウスは、1938年(昭和13)の「火保図」によれば佐久間邸。邸の横に描かれた、西へと入りこむ上り坂は、左右に当時の山路邸と井上邸とが並ぶ尾根上へと抜けことができる。この上り坂はかなりの急傾斜で、西坂や久七坂のいちばん激しい傾斜角ぐらいはあるだろうか。坂道の角度に名残りをとどめる、急斜面の裾元の土砂を掘り、上段に乗せて水平にした敷地に佐久間邸は建てられていた。1930年(昭和5)当時、この邸の意匠はおそらく最先端の建築デザインだったろう。もし、いまでも残されていたなら、戦後に建てられた住宅だと錯覚しかねない。事実、下落合には戦後、このようなデザインを採用した住宅がいくつも造られている。
 
 緑がゆたかで、シャレた西洋館が数多く建ち並ぶ丘だけれど、改正道路(山手通り)の工事は1944年(昭和19)ごろには、ちょうど佐久間邸の前Click!あたりまで伸びてきている。戦後に山手通りが開通すると、この一帯はジワジワとクルマの騒音・排ガスに悩まされることになった。1940年(昭和15)ごろに撮影された、新宿歴史博物館にも画像検索展示されている佐久間邸と熊倉医院の写真は、この風景画に描かれた丘の面影が残る、最後の姿をとらえたものだろう。
 
 宮下琢郎の『落合風景』は、気味(きび)が悪いほどあっけなく描画ポイントを特定できた。しかし、同時にたいへん厄介な課題が、そのスムーズさとは裏腹に浮上してくることとなった。この絵に描かれた佐久間邸(モダンハウス)の上が、同一敷地に2棟つづけて住宅が建てられていた山路益三邸ということになる。つまり、1929年(昭和4)の暮れまで武者小路実篤Click!が住んでいた場所こそが、翌年に描かれているモダンハウスの佐久間邸・・・ということになってしまうのだ。
 自宅の門前にたたずむ武者小路の背後に見える家は、このモダンハウスの地形や風情、それに在住当時の地番ともまったく一致していないことになる。このテーマについては、さらにつづけて次回の記事で追いかけてみたい。

■写真上:左は、1930年(昭和5)に制作、翌年早々に発表された宮下琢郎『落合風景』。右は、描画ポイントの現状。作品の風情は、いまや丘上に通う道筋にかろうじて残されている。
■写真中上:左は、画面に描かれた家々の特定。右は、モダンハウス佐久間邸跡の現状。
■写真中下:左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる描画ポイント。家々の配置や形状が画面とピッタリ照合し、正確に描かれているのがわかる。右は、1938年(昭和13)の「火保図」。
■写真下:左は、1940年(昭和15)ごろに撮影された佐久間邸。右は、画面モダンハウスの拡大。