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武者小路実篤邸はいったいどこ? [気になる下落合]

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 1984年(昭和59)に、目白学園女子短期大学の国語国文科研究室が出版した『落合文士村』には、次のような記述がある。
  
 「僕の失業時代が来た。五十近くなっていた。改造からも中央公論からも原稿を頼まれなくなった」
 と、しみじみこの時期を述懐したのは武者小路実篤である。『改造』も『中央公論』も、プロ派に占領されつくした、というのだ。
 実篤が下落合一七三一番地、すなわち山路益三の隣り邸に移った四年の春からのことだった。以来、二宮尊徳や日蓮などの伝記物で、実篤は激しい時勢をしのいできた。
                                         (同書「ふたりの尾崎」より)
  
 プロレタリア文学にメディアを“占領”されてしまい、他の作家たちは執筆の機会さえなくなってしまった様子が書かれている。でも、武者小路実篤邸について、下落合の住所にはどのような資料的裏づけがあるのだろうか? 宮下琢郎が1930年(昭和5)に描いた『落合風景』Click!のモダンハウスは、山路益三邸の「隣り邸」に当るのだけれど、写真Click!に撮られた家とモダンハウスはまったく一致しない。また、地形自体もぜんぜん一致していないことは一目瞭然だ。さらに、1929年(昭和4)現在、この佐久間邸の区画は、下落合1771番地であって1731番地でもない。上記の記述は、なにかが少しずつおかしいのだ。
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 1929年(昭和4)の11月まで武者小路が住んでいた家は、彼が転居するとともに解体され、新たに佐久間邸のモダンハウスが建てられた・・・と考えることもむずかしい。なぜなら、現在でも佐久間邸跡の北側に通う急坂とその周辺で確認できるように、画面手前を左右に横切っている道路(第二文化村からつづく三間道路の坂下)から西側は、佐久間邸の造成法のように、急斜面の裾元にある土砂を削って上部へ積み上げ土地を水平にするか、あるいは佐久間邸の北側(宮下の作品画面に描かれた右手)の区画のように、斜面の土を丸ごと削り取って運び出し、斜面に沿ってひな壇状に造成するしか平らな住宅敷地を確保できないからだ。それを考慮すれば、武者小路が門前にたたずむ「下落合1731番地」と、描かれたモダンハウスの敷地=「山路益三の隣り邸」(ちなみに昭和4年当時は下落合1771番地)とは、まったく風情のちがうことがわかる。つまり、1924年(昭和4)現在の武者小路邸の所在地が、また振り出しにもどってしまった・・・ということになるのだ。
 第二文化村の造成とともに、尾根筋から南へと下る三間道路が、下落合1731番地をまっぷたつに割ってしまったのを是正するためにか、1935年(昭和10)ごろ周辺の地番が新たにふり直されている。新しい地番をもとに制作されている、1938年(昭和13)ごろに作成された「火保図」ではなく、1929年(昭和4)現在の「豊多摩郡落合町全図」をベースに検証し直したほうがよさそうだ。
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 上記の「実篤が下落合一七三一番地、すなわち山路益三の隣り邸」という『落合文士村』の記述には、どこか時系列的な錯誤があるのではないだろうか? そのひとつめは、1929年(昭和4)現在、武者小路が在住していたころの地番をベースに考えれば、山路邸の「隣り邸」に下落合1731番地は存在しない。強いていえば、西へ上る急坂をはさみ、坂の上と下とで斜向かいに山路邸と下落合1731番地の敷地は接していたことになるのだが、「隣り邸」と表現することはかなりむずかしい。1935年(昭和10)年ごろになって、ようやく山路邸に接する東側が1731番地となる。(山路邸は下落合1730番地) 『落合文士村』は、1935年(昭和10)以降の地図で下落合1731番地を探し、のちの地番で山路邸の「隣り邸」と表現してしまった可能性が考えられるのだ。
 ふたつめの可能性は、山路邸の「隣り」は正しいものの、「下落合1731番地」という地番が誤っているケース。ただし、こちらは可能性としてはかなり低いだろうか。下落合に住んだ武者小路には、たくさんの書簡が送られてきただろう。その残された書簡の宛て先から、下落合1731番地という地番が判明しているとすれば、これは動かない事実だからだ。そして、武者小路の年譜には、下落合におけるこの地番がかなり多く見られる。
 そう考えると、前者の可能性が怪しいことになる。『落合文士村』の著者は、まず武者小路が下落合1731番地に住んでいたという事実を認知した。そして、地図を開いて地番を確認したのだ。ところが、その参照した地図が1935年(昭和10)前後のもの、すなわちこの地域一帯の地番変更が新たに行われたあとの地図を参照してしまったのではないか。その地図には、第二文化村から南へと下る坂道の東側(地図上では右手)から、すでに1731番地が丸ごと消滅していた。したがって、坂の西側へ南北に延長された1731番地に注目してしまった可能性が考えられる。
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 おそらく、著者は個人名と家の形状が掲載された「火保図」も参照しているだろう。そして、「火保図」の時点(1938年・昭和13)で、写真に残された武者小路邸のかたちにもっとも近い、下落合1731番地のモダンハウス=佐久間邸に注目したのではないか。実は、この家は1930年(昭和5)にはすでに宮下琢郎描くモダンハウスの姿をしており、しかも武者小路が在住した当時は下落合1771番地という住所だった・・・ということに気がつかなかった。そして、西隣りの家名を文中に取り入れ、「山路益三の隣り邸」と表現してしまったのではないだろうか? こう考えてくると、『落合文士村』の表現が形成された筋道が、なんとか見えてくるようだ。
 しかし、それでは武者小路実篤邸はいったいどこに建っていたのか?・・・という疑問は、相変わらずナゾのままなのだけれど。わたしは、坂の東側に建っていたという、地元の伝承が気になってしかたがない。引きつづき、武者小路邸を探しつづけたいと思っている。ちなみに、この坂の下に住んでいた李香蘭邸Click!をついに見つけたので、改めてご紹介したい。

■写真上:1935年(昭和5)現在に、モダンハウス(佐久間邸)が建っていたところの現状。
■写真中上は、1930年(昭和5)に描かれた、宮下琢郎『落合風景』(部分)の佐久間邸。は、下落合の邸前にたたずむ、『落合風景』の前年に撮影された武者小路実篤と邸。
■写真中下は、モダンハウスの裏に通う急坂。写真の左手がモダンハウスから山路邸へ、右手が宮前邸のあったひな壇状の区画から井上邸へ。は、坂に面した旧山路邸の敷地の現状。
■写真下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる山路邸界隈。モダンハウスの佐久間邸は、下落合1771番地から1731番地へ、宮前邸あたりの下落合1731番地は1727番地と、すでに地番変更が行われている。は、戦災をまぬがれ1947年(昭和22)に撮影された空中写真。


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ChinchikoPapa

nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2008-02-05 12:20) 

ChinchikoPapa

わたしも雪で大騒ぎをしたひとりです。(笑) 雪に対して、まったくの不用意だから騒いじゃうんでしょうね。nice!をありがとうございました。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2008-02-05 12:23) 

ChinchikoPapa

きのうの暖かさで、屋根の雪が一気に落ちてきてひどい目にあっています。
nice!をありがとうございました。>Krauseさん
by ChinchikoPapa (2008-02-05 12:26) 

ChinchikoPapa

お濠には、今年も白鳥が来ているでしょうか。
nice!をありがとうございました。>komekitiさん
by ChinchikoPapa (2008-02-05 15:40) 

ChinchikoPapa

地盤のお話は面白いですね。うちはボーリングによれば、4m下までが関東ローム層です。nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-02-05 18:48) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2012-03-21 17:08) 

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