下落合の邸内における九条武子Click!の日常生活は、ほとんど知られていない。いまに残る彼女の写真といえば、ボランティア活動の報道写真Click!をはじめ、歌の会合や旅先で撮られた記念写真が目立ち、化粧が濃くとりすました表情のポートレートが多いのだけれど、下落合の自邸では日常的にどのような暮らしをしていたのだろうか?
 現在の野鳥の森公園の上あたり、下落合753番地に住んでいた九条武子は、自邸内ですごす写真をあまり撮らせていない。でも、親友でカメラ好きだった“清子さん”には特別に気を許していたようで、たびたび家に泊めては普段着のスナップショットを、発表はしないという約束で撮らせていた。ところが、いつものように下落合でスナップを撮らせていた直後に、武子は「すぐに治ってよ。病院で、少し休ませていたゞくのよ」と言い残して入院し、そのまま1928年(昭和3)2月7日に急逝してしまう。“清子さん”は、撮影した多くの写真を長く秘蔵していたが、武子の七回忌のとき供養のためにと、一部を公開することにした。1934年(昭和9)に出版された『主婦之友』3月号から、それら下落合の自邸におけるスナップ写真を見てみよう。
  ●
 おなつかしき武子さま・・・・・・
 早くも、あなたさまのお七周忌、それとても、今さら昨日のことのやうに想はれまして、おなつかしさに、あなたさまのお写真の、清子が撮らしていたゞきましたのを、まだ一度も世に出てゐませぬまゝに、秘めたる筐の底よりとりいでゝ、いませし日のことを、今宵も偲びまゐらせて・・・・・・
                               (同誌「九条武子夫人の秘められし面影」より)
  ●
 
 
 これらの写真を見ると、彼女が大のネコ好きだったのがわかる。家の飼いネコばかりでなく、おそらく野良ネコにまでエサをやって手なずけていたのではないか。いまでも、下落合のそこかしこで見かける、お馴染みの模様の雑種ネコたちだ。彼女が膝に抱くネコは、九条邸の下にある旧・S邸だった野鳥の森公園でひろった、うちのネコの模様にもどこか似ている。九条邸の周囲をウロついていた野良ネコの末裔で、少しばかり遺伝子が混ざっているのかもしれない。
 彼女の日常生活には、掃除をする姿がやたらに多い。特に外まわりの掃除は大好きだったようで、「植木屋を入れると、一日二円八十銭なのよ、清子さん、御存じ?」と言っては、庭の芝刈りや草むしり、植木の剪定などをしていたようだ。かなり几帳面で、きれい好きな性格だったのだろう。なにしろ、毎朝5時に起床して掃除をはじめたというから、それに付き合うカメラマンの“清子さん”はたいへんで、ときに悲鳴をあげている。少し見方を変えれば、九条武子は周囲がきちんと片付いていないと我慢のならない、相当な潔癖症だったらしい様子が、これらのスナップ写真から伝わってくる。
 
 
  ●
 震災後下落合に家を求めてからを知っている人が、武子さんの日常を、パサパサしたなつかしみのない、親分の女房みたいだと評し、わざとらしいしなをつくるが、電話の声と地声とはちがい、外から帰ると寛袍(どてら)にくつろぎ、廊下は走りがちに歩く、女中にきいてみたら、京都へゆく汽車の中では、ずっと身じろぎもしないで、座ったままだというのに----と、良致さんとの夫婦生活を、およそ男性のもとめるイットのないものとくさしたが、わたしは胸が苦しかった。
                            (長谷川時雨『新編・近代美人伝』/岩波書店版より)
  ●
 むしろ、楚々としたよそ行きらしい建て前の九条武子よりも、わたしなんぞは「親分の女房」のようにどてらを羽織って、廊下を走りまわる彼女の側面にこそ惹かれてしまうのだ。
 きわめつけは、自邸内の掃除や庭仕事ばかりでなく、周囲の道路整備までやってしまうほどで、いま風にいえば工事用の“ネコ”(砂利などを運ぶ一輪車)を押して、路上の石を取り除いている彼女の姿がとらえられている。どうやら、近所の子供や来訪者が蹴つまずいて転ぶと危ないというのではじめた作業らしい。写真の道は、現在の野鳥の森公園へと下るオバケ坂の上あたりで、関東大震災Click!直後の転居したばかりのころ、1923年(大正12)の秋に撮影されたものだ。
 ほんとうは、裾をはしょって作業をしたほうが効率がいいのだけれど、「人がとほるから、裾をあげられないことね、ほゝゝゝ」と、さすがにどてらこそ着ていないが、普段着姿でせっせと石を掘り起こしては路傍へと運んでいた。“清子さん”のレポートに描かれた武子は、いつもよく笑うのがちょっと意外で、写真に残るすまし顔の彼女の面影とは、ずいぶん異なる印象を受ける。
 
 これらのスナップには、九条邸の外観や邸内の様子も記録されていてとても貴重だ。それらを見ると、洋間も備えた和洋折衷の間取りだったようで、崖線(バッケ)のある南側を向いて「コ」の字型の建物だったのがわかる。1936年(昭和11)の空中写真に写る旧・九条邸は、すでに地主によって建てかえられたものか、写真の風情とはあまり一致しない。九条邸の地主は、薬王院や諏訪谷の近くにも地所を持っていたらしく、武子とほぼ同時期、1923年(大正12)8月31日に引っ越してきた鈴木良三宅Click!も同じ地主の借家だった。
 レンズを意識すると、芝刈りの最中でもつい流し目をくれてしまうのが、なにかとカメラを向けられる機会の多かった武子の“習性”なのだろう。入院の直前に、近くの公園で撮られたとみられる彼女のポートレートは、熱がつづいているのか面やつれしていて、さすがにいつもの精彩がない。

■写真上:下落合の緑をバックに立つ九条武子のプロフィールで、モノクロ写真に人着している。
■写真中上:上は、洋室の居間(左)と和室の書斎(右)らしい。下は、スナップにはあちこちにネコが登場している。2円80銭/日の庭師は雇わず、庭仕事はみんな彼女がこなしていたようだ。
■写真中下:掃除好き、キレイ好きな九条武子は、早朝5時から起きて掃除をはじめた。左上は庭掃除、右上は道路整備。現在の野鳥の森公園上の道で、正面に崖線(バッケ)の急斜面が見えている。左下は、陽当たりのいい縁側での縫い物。右下は、書斎で仕事中のスナップショット。
■写真下:左は、亡くなる直前に自宅近く、下落合のどこかで撮られたと思われるスナップ。ベンチがあるので、近くの公園だろうか? 右は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された旧・九条邸あたりの空中写真。武子の死後、ほどなく地主によって建物は建て替えられているようだ。