三ノ坂と四ノ坂とにはさまれ、目白崖線の上に建っていた島津源吉邸の貴重な写真を、島津家のご子孫の方からお譲りいただいたのでご紹介したい。1877年(明治10)に、日本で初めて有人気球の飛行に成功した島津源蔵(初代)はあまりにも有名だけれど、島津製作所の創立者としても知られている。同社の3代目社長が、2代目社長・島津源蔵(梅次郎)の弟にあたる島津源吉だ。
 島津源吉は、早くから兄の医療用のX線装置いわゆるレントゲンや蓄電池(バッテリー)の開発を手伝い、1909年(明治43)になると製品化に成功している。1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』の人物事業編から、紹介文を引用してみよう。
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 京都府の名望家島津源蔵氏(2代目)の令弟にして明治十年九月を以て出生、大正九年分家を創立す、夙に業界に入り現時前掲同族会社に重役たる外(、)鉛粉塗料会社取締役、日本電池会社監査役たり(、)家庭トミ子(ママ)夫人は同じく同郷の先進菱本伝右衛門氏の二女である。(カッコは引用者註)
※島津家のご子孫より、「トミ夫人」が正確な表記だと『落合町誌』の誤記、その他のをご指摘いただきました。わざわざごていねいに、ありがとうございました。<(_ _)>
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 『落合町誌』が作られた当時、島津製作所の社長は2代目・源蔵であり、島津源吉は常務取締役だった。京都の発明一家で知られる島津一族だが、同製作所のエンジニア・田中耕一が2002年にノーベル化学賞を受賞したのは、まだ記憶に新しい。
 いただいた写真を観察すると、竣工直後かあるいは建設されて間もない時期なのか、建物も室内も真新しい雰囲気で、庭木も背が低く若いようだ。1920年(大正9)に分家した直後に建設しているとすれば、ちょうどそのころの姿だろう。洋館の2階南側が、いまだバルコニー造りのままとなっている。しばらくすると、このバルコニーはサンルームへと改築Click!されているようだ。


 建物は、東側の洋館部と西側の和館部とで、明確にデザインが分かれている。でも、両館は明治期にあまた建てられた邸宅のように分離してはおらず、密接にくっついて連関している。島津邸の設計は、国会議事堂の設計で有名な、大熊喜邦と近所に住む吉武東里とのコラボレーションだ。吉武東里については、ある方がわざわざ落合の住所をご遺族にまであたって調べてくださったので、後日改めて記事にまとめてみたい。麹町出身の大熊喜邦も、近くに住んでいた可能性がありそうだ。
 南側の庭園は、まだ樹木が育っておらず、芝庭のような風情となっている。同時にお譲りいただいた、1932年(昭和7)1月現在の実測図を見ると、洋館の東側には噴水があったようだが、残念ながら写真の枠外となっている。庭木が大きく成長し、南の庭が草木で覆われたころ、金山平三Click!がやってきて東向きにイーゼルを据え、手前で写生する島津一郎を取り入れながら『秋の庭』Click!(1933年ごろ)を描いたのだろう。実測図を仔細に観察すると、金山描く風景と地形、そしてひな壇状に並んだ家々の屋根の配置が一致しているのに気づく。
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 洋館部の室内を拝見すると、ただため息が出るほど豪華で美しい。応接室(約20畳大)を見ると、当時は最高級だった素材がふんだんに用いられ、細部にまでこだわってデザインされた様子がうかがえる。吉武+大熊コンビによる、腕の見せどころだったにちがいない。談話室(8畳大)から和館へと通じる広い廊下(いただいた間取り図ではベランダと表記)には、庭園を見ながらくつろぐためにか、洋風のイスが何脚か置かれているが、その床面や照明のデザインが和風なのが面白い。このベランダ(廊下)の右手(北側)に、10畳と8畳の和室が並んでいた。
 洋館よりも和館のほうが、実はもっと広大なのだけれど、説明しだすとキリがなさそうなのでこのへんで・・・。ただし、島津邸の台所については、別テーマの記事の中でぜひ触れてみたい。

■写真上:大正中期に建設された、下落合2095番地の島津源吉邸(洋館部)。
■写真中上:上は、1932年(昭和7)1月に制作された「下落合字小上2038/2096番地家屋配置実測図」。刑部人邸Click!の西側に、金山平三がタライを浮かべて遊んだ大きな池が見えている。下左は、南の庭から眺めた竣工間もない島津邸。下右は、島津家が寄付した四ノ坂の階段。
■写真中下:上は、島津邸の間取り図(南東部の部分)。下左は、南の庭から急傾斜で下る目白崖線(バッケ)で、刑部邸の池があったあたり。下右は、洋館1階の広い応接室。
■写真下:左は、洋館の応接室。右は、洋館の談話室から和館のベランダ(廊下)にかけて。