上の絵は、洋画家・安井曾太郎Click!が戦前に描いた、オールド・リベラリストの風格が漂う『安倍能成氏像』だ。目白文化村Click!が空襲を受けた1945年(昭和20)4月13日夜半、下落合1655番地(現・中落合4丁目)の第二文化村にあった安倍邸から、かろうじて持ち出されたものだ。※ モノクロではわかりにくいが、画面のあちこちに火の粉による焼け焦げがついている。安井曾太郎の前で、安倍は40回以上もモデルをつとめ、この半身像の制作に協力した記録が残されている。
※その後、4月13日夜半の空襲で第二文化村の安倍邸は焼けたが、同作はその後代々木の官舎に置かれていたところ5月25日夜半の空襲で罹災している。したがって、画面の焼け焦げは5月25日夜半の第2次山手空襲時のものだ。
 第二文化村が販売された1923年(大正12)ごろ、安倍能成は下落合1655番地(現・中落合4丁目)の敷地に自邸を建設している。ところが、ある方からお譲りいただいた、わたしの手元にある安倍能成から谷崎潤一郎あての貴重なハガキClick!の住所は、下落合3丁目1367番地(現・中落合3丁目)と記載されている。さらに、安倍能成が死去した1966年(昭和41)6月7日当時の朝日新聞(夕刊)の訃報でも、自宅の所在地は同番地になっている。
 でも、第一文化村に住んでいるわたしの知人は、1960年代に下落合1655番地(当時は下落合4丁目1655番地)の安倍邸へ、1階の洋間に置かれたピアノを弾きに通われている。この安倍邸をめぐる地番の齟齬が、ずっと気になっていたのだ。その“謎”がほぼとけてきたのは、1960年(昭和35)から1980年代にわたる、住民名までが記載された詳細地図を参照できたからだ。また、これらの貴重な地図のコピーを、ある方からお譲りいただいたのも非常にありがたかった。
 

 まず、箱根土地が1925年(大正14)に作成し、戦後に竹田助雄Click!が発見した「目白文化村分譲地地割図」を見ると、下落合1655番地に安倍能成の名前が見える。でも、この邸は先にも書いたように1945年(昭和20)4月の文化村空襲で焼失してしまう。戦後、安倍が短期間だが文部大臣をつとめたあと辞任し、つづいて学習院の院長に就任すると、彼が書簡の差出人欄へ書いていた住所の多くは、「豊島区目白町1/学習院内」というものだった。特に、1948年(昭和23)から1958年(昭和33)ごろまで、この「住所」の手紙類が目立つようだ。おそらく、自宅よりも勤務先へ郵便をもらったほうが、なにかと処理が便利だったからだろう。だが、1960年代が近づくにつれて「下落合3丁目1367番地」、つまり戦後の自宅の差出住所が多く見られるようだ。これは、頻繁に書簡を交換していたらしい、志賀直哉側の資料からもうかがえる。
 つまり、こういうことではないだろうか。空襲で第二文化村の自邸が焼けたあと、戦後すぐに長男を亡くした安倍能成は、下落合4丁目1655番地の敷地を次男である安倍浩二の自宅にと譲渡した。第一文化村の友人は、同じ安倍邸でも子息邸のほうの1階でピアノを弾かれていたのだ。これは、1960年(昭和35)に作成された「東京都全住宅案内帳-新宿西部-」(住宅協会/人文社)、あるいは1966年(昭和41)制作の同地図でも裏付けられる。そして安倍能成自身は、文化村空襲で自邸と同時に焼けてしまった、大きな西洋館・MI邸Click!の北側敷地=下落合3丁目1367番地を購入あるいは借りるかして、そこへまったく新たな自邸を建設した。文相から学習院院長へと就任した、戦後間もないころのことだろう。
 
 ところが、せっかく住み馴れてきた下落合3丁目1367番地の邸にもかかわらず、ほどなく十三間通り(新目白通り)の計画敷地に邸の一部がひっかかってしまう。そこで、邸を少し南西にずらして再び新築することになり、どこかで仮住まいをすることになった。その前後に、急激な白血球の低減で体調を崩し、順天堂病院へと急遽入院することになってしまったのだ。だから、病院で死去する直前に、主治医へ漏らした言葉として、「早く治って新築の家に帰るのだ」というコメントが朝日新聞の記事に残り、詳報にも掲載されているのだろう。
 わたしの手元にある谷崎潤一郎あて1964年(昭和39)12月16日付けのハガキは、おそらく十三間通りの造成が間近に迫り、どこかへ仮住まいをして新邸を建築する直前か、あるいは準備中に書かれた公算が高いように思われる。新しい邸の設計図も、できていたころかもしれない。安倍能成が亡くなった年に作成された、1966年(昭和41)の「東京都全住宅案内帳-新宿西部-」を確認すると、十三間通りが北西側から下落合3丁目1367番地の安倍邸をめざして、間近に迫っている様子が記録されている。また、安倍能成が死去してから16年後に作成された、1982年(昭和57)の同地図にも、貫通した十三間通りの道路端に、いまだ「安倍能成」の名前が収録されている。おそらく、彼の退院を待っていた邸の表札が、80年代までそのまま掲げられた状態になっていたのだろう。
 
 でも、後者の地図に掲載されている安倍邸のかたちは、十三間通りが貫通するのと同時に、道路にひっかからないような位置へ改めて新築された、1966年(昭和41)以降の安倍邸の姿だろう。安倍能成は病院のベッドで、この新邸に暮らすことを楽しみにしていたにちがいない。

■写真上:左は、1947年(昭和22)出版の市原豊太『内的風景派』(養徳社)に掲載された、安井曾太郎『安倍能成氏像』の貴重な画面。空襲による焼け焦げが、キャンパスのあちこちに残る。右は、1964年(昭和39)12月16日(水)に書かれた谷崎潤一郎あてのハガキ。
■写真中上:左は旧・下落合(4丁目)1655番地の、右は旧・下落合3丁目1367番地の現状。下は、1966年(昭和41)6月7日(火)に発行された「朝日新聞」(夕刊)の訃報。
■写真中下:左は、箱根土地が1925年(大正14)に作成した「目白文化村分譲地地割図」。右は、1960年に制作された「東京都全住宅案内帳-新宿西部-」(住宅協会/人文社)。
■写真下:左は1966年(昭和41)発行の「東京都全住宅案内帳」、右は1982年(昭和57)の同地図にみるふたつの安倍邸。第二文化村の閑静な街角が、十三間通りの道端になってしまった。