相馬邸が建てられてから解体されるまでの経緯を、改めてもう一度まとめてみよう。
-1910年代(大正初期)ごろ 近衛家から西側の敷地15,000坪を購入(当時相馬邸は内幸町)
-1915年(大正4) 総建坪800坪の相馬邸建築・竣工
-1915年(大正4) 『相馬家邸宅写真帖』制作のために相馬邸内の写真撮影
-1919年(大正8) 相馬順胤(ありたね)逝去、相馬孟胤(たけたね)が継承
-1932年(昭和7) 『落合町誌』の「人物事業偏」に相馬孟胤子爵収録
1936年(昭和11) 『相馬家邸宅写真帖』制作のために相馬邸内の写真撮影
-1936年(昭和11)2月 相馬孟胤逝去、相馬恵胤(やすたね)が継承
-1939年(昭和14) 相続に関連して相馬邸敷地が売却され、相馬家は中野へ転居
-1941年(昭和16) 黒門の解体・移築作業がスタート、同時におそらく母屋の解体も開始
-1943年(昭和18)3月 福岡市の私立香椎中学校の正門として黒門の移築が完了
-1945年(昭和20)4月~5月 戦災をほとんど受けず庭門・太素神社は無傷で残存
-1946年(昭和21)4月 所有者である東邦生命の社長・太田清蔵が死去
-1950年(昭和25) 太素神社を福島県南相馬市へ移すために社殿を解体・撤去
-1952年(昭和27) 南相馬市小高区の相馬小高神社で遷座祭が行なわれ奥の院として設置
-1969年(昭和44) 国有地となっていたが地元の強い要望で「おとめ山公園」として保存・開園
※その後の調査で、『相馬家邸宅写真帖』は下落合に相馬家の新邸が建設された、1915年(大正4)に撮影され、近隣へ配布されたものであることが判明Click!した。
 ちなみに、戦時中に撮影された空中写真には、すでに相馬邸の姿が見えないClick!ことは以前から指摘してきたけれど、相馬恵胤時代の1939年(昭和14)に売却され、ほどなく解体されていることがはっきりした。だから、相馬邸が1945年(昭和20)5月25日の空襲で焼けたというのは、下落合の誤伝承だったことがわかる。B29から焼夷弾がバラまかれ、あたり一帯が火の海と化した大混乱の中での記憶だから、空襲のあと相馬邸の敷地に建物がまったく見えなかったら、当時の下落合の人々が空襲で全焼したと判断するのは自然だったろう。
 上掲の写真(④)は、母屋のいちばん南側、ちょうど現在の東西を結ぶ道路のあたりに建っていた、「居間」と呼ばれる巨大な母屋の一部で、広い芝庭の南東側から眺めた光景だ。いかにも大屋敷にふさわしい意匠の切妻の下には、南からの陽光をふんだんに取り入れられる全面ガラス張りの部屋部屋が並んでいた。特に「居間」の2階は、サンルームででもあったのか、ひときわ大きな窓ガラスが目を惹く。
 この母屋の「居間」から、御留山の深い谷戸へと落ちこむ南側の斜面一帯は、一面の芝庭が拡がっていた。その斜面下から母屋の「居間」方向を仰ぎ見て眺めたのが、写真⑤の風景だ。巨大な相馬邸母屋の全景が、まばらに植えられた松の木立を透かして見ることができる。撮影者の背後は、急激な崖(バッケ)状の落ち込みとなり、その下の斜面からは泉水がこんこんと湧いていただろう。いまも涸れることなく、おとめ山公園に残る谷戸の湧水源だ。

 
 この芝庭の一帯には、現在、財務省(旧・大蔵省)の官舎が建てられているが、斜面の様子から官舎建設の際には、地面を多少埋め立てて土地が水平に造成しなおされていることが、この写真からもかがえる。何年かのちに、財務省官舎は解体されて新宿区が土地を買収し、おとめ山公園が拡張され、災害時の落合地区における避難区域として指定される予定となっている。
 御留山のピークに近い斜面、弁天池のある谷間に面した小さな門は、「庭門」(⑥)と呼ばれて戦後までそのまま残っていた。御留山が公園化されるとき、公園の入口にこの「庭門」を活用したという記録が、竹田助雄Click!が1982年に出版した『御禁止山―私の落合町山川記―』(創樹社)にも記載されている。

 
 「庭門」は、相馬邸であった1939年(昭和14)以前も、また、おとめ山公園となったあとも、西側の池がふたつある公園へ入るところ(出るところ)にあり、カルガモ横断注意の標識がある坂上の公園門として活用されていた。この門を通って、反対側の弁天池のあるもうひとつの公園へ、「カルガモ坂」を横断して抜けることができる。現在でも、この位置に庭門を見ることができるけれど、おそらく門の傷みからのちにリニューアルされているのだろう。
 最後の写真⑦は、相馬邸敷地の北西側にあった、妙見神(北斗七星信仰)を奉る太素神社だ。1950年(昭和25)まで下落合にあり、その後は福島県南相馬市小高区にある相馬小高神社(相馬胤道・宮司)へ遷座されている。1952年(昭和27)に同社で遷座祭が行なわれ、太素神社は奥の院Click!として設置されているので、現在でもその姿を観ることができる。相馬様のお話によれば、この太素神社は相馬邸の敷地内にもかかわらず、いつも周辺住民へ開放されていたとのこと。1926年(大正15)に制作された「下落合事情明細図」や、1938年(昭和13)のより詳細な「火保図」を参照すると、黒門のすぐ西側に並んで、もうひとつの門を確認することができる。これが、鳥居のあった太素神社の入口だと思われる。

 
 「火保図」には、同社の拝殿と本殿らしい建物も採集されて描かれている。おそらく、相馬邸の黒門前の接道から、直接そのまま南側の境内へ入ることができたのだろう。1947年(昭和22)に撮影された戦後すぐの空中写真を見ると、確かに敷地の北西部に参道と神社の建物らしいかたちが確認できる。北側の道路に面して、おそらく鳥居も設置されていたのだろう。この神社へお参りされたことのある方、どなたかご記憶であればお知らせいただければと思う。
 ようやく念願だった、相馬孟胤邸のほぼ全貌を拝見することができた。相馬子爵邸の姿は、サイトを始めるかなり前から探していたので、その期間も含めると10年以上もの歳月が流れている。「おとめ山の自然を守る会」の松尾様へご報告したところ、さっそくお電話をいただきたいへん喜んでおられた。貴重な写真の数々をわざわざお送りくださり、ほんとうにありがとうございました。改めて、深くお礼を申し上げます。>相馬様

■写真上:南側にあった大きな2階建ての母屋で、「居間」と呼ばれていた。いずれの相馬邸写真も、1915年(大正4)制作の『相馬家邸宅写真帖』(相馬小高神社宮司・相馬胤道氏蔵)より。
■写真中上:上は、南の芝庭から相馬邸母屋の全景を眺めたところ。下左は、財務省官舎の敷地に残る礎石と思われる石群だが、相馬邸の母屋位置よりもさらに南に置かれている。下右は、御留山の谷戸から北側の崖(バッケ)を見あげたところ。手前が、谷戸の突き当たりにある湧水源。
■写真中下:上は、相馬邸の弁天池西側の斜面にあった「庭門」。戦災でも焼け残り、おとめ山公園が造られる際には公園門のひとつとなっていた。下左は、1947年(昭和22)に上空から撮影された「庭門」。下右は、現在の「庭門」位置にある公園門で、おそらく建て直されたものだろう。
■写真下:上は、相馬邸敷地の北西にあった太素神社拝殿。下左は1936年(昭和11)の、下右は1947年(昭和27)の空中写真にみる、敷地北西部の太素神社の境内あたり。