1945年(昭和20)の4月13日と5月25日の二度にわたり、落合地区はB29による爆撃を受けた。4月13日Click!の空襲は、神田川から妙正寺川沿いの工場地帯(といっても友禅染や藍染など染物工場が多かった)が、250キロ爆弾をまじえた空襲を受け、5月25日Click!の空襲では目白通りや西武電鉄を含め、落合地区全体が再びナパーム焼夷弾を主体とする爆撃を受けている。
 これら山手空襲の際に、住民の方々がどこへ避難したのか、あるいはどのような消火活動が行なわれたかのお話は、これまでずいぶん多くうかがってきたけれど、死傷者についてのお話しはあまりうかがえなかった。そこが、下町の空襲に関する伝承と山手の伝承との、多少異なる特徴だろうか? 下町では、空襲の話というと死者にまつわる話が圧倒的に多い。もちろん、山手空襲でも数多くの死者は出ているのだけれど、たとえば下町の3月10日の膨大な死者をともなう壊滅的な空襲Click!に比べれば、山手はまだ相対的に死者の数が少なかったせいもあるのかもしれない。でも、当然ながら落合地区でも、空襲による死傷者は数多く出ている。
 負傷者の多くは、延焼をまぬがれた聖母病院Click!へと運ばれただろうか。おそらく聖母病院は、すでに空襲の被害を受けた東京じゅうの負傷者であふれ返っていただろう。3月10日の東京大空襲で負傷した人たちを、義父が陸軍のトラックで下町から聖母病院までピストン輸送Click!していた話は以前にも書いた。だから、落合地区が空襲にみまわれた4月から5月にかけてのころは、すでに病室はすべてふさがり満員状態だったのではないかと思われる。
 
 下町では、亡くなった人たちの多くは、大きな穴を掘ってそこへ百人・千人の単位で投げ込まれ、一括して「仮埋葬」された。その総数は膨大であり、「仮埋葬」といってもあとで遺体が遺族によって実際に確認されたケースは非常に少ない。下落合でも、多くの死者は遺族に引き取られないまま、集団で「仮埋葬」されていた。大きな穴を掘って、20~30人ほどの単位で遺体は次々と埋められていった。埋葬場所は、薬王院墓地(旧墓地)の北側にあった森林跡の空地、コンクリート塀沿いの一画だ。佐伯祐三Click!が描いた「墓のある風景」Click!の描画ポイントから、わずか20mほどしか離れていない、東西に築かれた北側のコンクリート塀にあたる。
 もともと、薬王院の濃い森が拡がっていた場所だが、戦時中に樹木が伐採されて空地となっていたらしい。現在の北側に拡張された、薬王院の新墓地にあたるエリアだ。数多くの遺体が「仮埋葬」されるのを目撃したのは、近所に住まわれている「落合の緑と自然を守る会」と「おとめ山の自然を守る会」の代表である、当時は17歳の中学生だった堀尾慶治様だ。コンクリート塀に沿って、遺体は次々と大きな穴の中へ埋められていき、その上に番号を書いた竹の棒が遺体ごとに1本1本立てられていった。死者の特徴や所持品などを記録した、おそらく遺体検案書や遺品資料と対照させるための「整理番号」だったのだろう。
 
 下町では、遺体の検案もほとんどなされないまま、のちの調査や本埋葬に備えた「整理番号」さえふられることなく、大きな穴へそのままいっぺんに「仮埋葬」されていった。各地域で「仮埋葬」された被害者の数は、およそ桁違いの万単位にのぼる。いまだに、東京大空襲による正確な犠牲者の数がつかめないゆえんだ。そういう意味では、家々が密集しておらず大量の犠牲者を出さずに済んだ山手空襲のほうが、比較的まだ余裕があったのだろう。のちに、薬王院の墓地が拡張され、新墓地が造成される際に、塀沿いに埋められた山手空襲の犠牲者たちは掘り返され、遺族に引き取られるなどして改葬されているものと思われる。
 現在では、きわめて明るい敷地となっている新墓地の一画には、大正時代に造られた旧墓地のコンクリート塀が、当時そのままの姿で残っている。そのすぐ傍らには、山手空襲による犠牲者たちの、63年後のかすかな叫び声や想いが、いまだ宿っているようだ。

■写真上:薬王院のコンクリート塀沿いにある、空襲の犠牲者たちがまとめて埋葬された一画。
■写真中:左は、1947年(昭和22)撮影の空中写真で、犠牲者は旧墓地と森林跡との境界にある塀沿い西寄りに集団埋葬されている。右は、早稲田上空を飛行するB29。眼下の早稲田の街は、右手の早稲田小学校(のち牛込第四小学校)を除いて一面焼け野原だが、左上にかろうじて焼け残った早稲田中学校の校舎と大隈講堂/早大キャンパスが見えている。
※203号系統さんのご指摘で写真を入れ替えました。詳細はコメント欄をご参照ください。
■写真下:旧墓地と新墓地との境界に残る塀沿いの現状。