諏訪谷Click!の東端から曾宮一念邸Click!の軒下あたりまでを描いた、佐伯祐三Click!の『下落合風景』Click!の一作「セメントの坪(ヘイ)」Click!に、もう少しこだわってみたい。実は、この画面には大樹のテーマClick!とともに、もうひとつ別の、現在とは異なる地形的なテーマが介在している。それは、画面右隅に描かれた2階建ての住宅だ。
 現在の風景では、そこに道路側から見て2階建ての住宅が見えていても、なんの不自然さも感じない。谷の底から鉄筋やコンクリートで基礎を造り、道路に沿って2階建て(に見える)住宅を造るのはさして困難ではない。では、大正末はどうだっただろう? もし、諏訪谷の谷底へと下りる傾斜面がいまと同様に絶壁状だったとしたら、そもそも佐伯が描く位置に2階家を建てるのは難しい。谷底から建築されているのであれば、3階建てでなければ画面のようには見えなかっただろう。ところが、どう見ても画面の家は2階建てに見える。
 先日、新宿歴史博物館で開かれていた、「新宿1955-1974風景」写真展で非常に興味深い写真を見つけた。上掲の、諏訪谷の久七坂筋から聖母病院のフィンデル本館をとらえた写真がそれだ。1957年(昭和32)当時の諏訪谷を写した、とても貴重なショットだ。
 諏訪谷の住宅街は、1945年(昭和20)5月25日の山手空襲Click!で全焼しているので、谷には戦後に急ごしらえされたらしい小さな家々が建てこんでいる。しかも、現在のように東から西へのゆるやかな下り坂ではなく、敷地が高低差のあまりないひな壇状になっていたのがわかる。注目したいのは、現在では切り立ったコンクリートの絶壁地形となっている北側の谷面に、この写真ではいまだ土の斜面が残っている点だ。
 
 厳密にいえば、「セメントの坪(ヘイ)」に描かれた家の位置は、この写真の画角には入っていないと思われる。画面の右枠外、フィンデル本館右横の丘上に写っている住宅2軒の、さらに右手(東側)あたりの一画だろう。斜面の様子から想像すると、この程度の傾斜であれば、第二文化村Click!の坂下に建っていたモダンハウスClick!と同様の工法で、盛り土さえしっかりすれば丘上の道筋に沿って家を建てるのは可能だったと思われる。
 でも、この戦後の写真でさえ谷底への傾斜角が、実はかなり鋭角になっているのかもしれない。大正末から昭和初期にかけ、諏訪谷は大がかりな宅地開発が行われている。旧“洗い場”Click!の南への移動や、谷底を貫く道路の整備、巨木の移植、大六天敷地の整備など、諏訪谷の姿はすでに一度大きく変貌しているはずだ。

 
 また、佐伯の画面中央の右寄りに写っているT邸Click!の南隣りの家は、下落合735番地の一画に当たる。つまり、1926年(大正15)から1930年(昭和5)あたりにかけての一時期、村山知義が暮らしていた家である可能性がある。『演劇的自叙伝3』に、母親の発案で三角の家を建て替えるための仮住まいとしている箇所を見つけたけれど、『美術年鑑』(朝日新聞社)に載る4~5年間の「仮住まい」というのが、どうしても解せないClick!のだ。
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 当時、私は目白で山の手線を下りて、学習院と逆の方へ目白通りを暫く歩き、長崎村へ行く道とが別れる二股道になる少し手前を左にはいって、畑に面した二階屋の三部屋の借家にいた。それは母の発起で、上落合に二、三軒の借家を建て、ついでにこれ迄のマッチ箱のような西洋館を普通の二階屋に改造する間の仮り住居ということであったらしい。(村山知義『演劇的自叙伝3』より)
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 「新宿1955-1974風景」写真展にはもう1枚、聖母病院のフィンデル本館あたりから南側を眺望した、ほぼ同時期に撮られたと思われる写真が展示されていた。おそらく、135mm前後の望遠レンズでとらえられた画角の狭い画面は、遠く東中野から西新宿あたりの風景が拡がる手前に、大きく黒々と盛り上がった目白崖線が見え、丘上に建っていた家々がとらえられている。画面の左側に見えている屋敷森は、西坂上の徳川邸界隈のように見える。そうすると、手前を斜めに森のほうへ向かう道は「八島さんの前通り」Click!ということになるのだろう。
 佐伯の「セメントの坪(ヘイ)」を酷評Click!した曾宮一念だけれど、自宅付近を描いた曾宮作品がもう少しないかどうか、いまも探しつづけている。

■写真上:1957年(昭和32)に撮影された、諏訪谷と聖母病院のフィンデル本館。
■写真中上:1926年(大正15)10月23日に描かれた、佐伯祐三「セメントの坪(ヘイ)」とその現状。
■写真中下:上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる諏訪谷。下左は、諏訪谷の東側突き当たりの大谷石による擁壁。下右は、佐伯画面の2階家が描かれているあたりの現状。
■写真下:左は、写真展に架けられていたもう1枚の写真。聖母病院から、望遠で西坂方面を眺めた風景だと思われる。右は、聖母坂下の西側に建っていた川村景明陸軍元帥の邸で、1917年(大正6)にあめりか屋によって建築された当初の姿。現在は、十三間道路(新目白通り)の下だ。