池袋に住み洋画家をめざしていた佐藤英男(早大建築科在学当時)は、1926年(大正15)の初冬、姉の佐藤松子に付き添われて佐伯祐三Click!のアトリエを訪問している。佐伯の連れ合いである米子の姉、池田よし子と佐藤松子が仏英和女学校の同級生だったことから、佐藤英男は洋画の勉強について相談するための訪問だった。武蔵野鉄道線の椎名町で下車し南へ歩きながら、ふたりは下落合661番地の酒井億尋Click!の敷地に建つアトリエClick!へとやってきている。
 そのときの佐伯アトリエの様子を、小さなスツールに腰かけて緊張していた佐藤英男は鮮明に記憶している。1990年(平成2)出版の宇佐美承の『池袋モンパルナス』(集英社)から引用してみよう。
  ●
 あらわれた佐伯は、だぶだぶのズボンをはいていた。くぼんだ眼窩の奥の瞳はすみきっており、ふたえ瞼と眉はくっつくほどで、西洋人をみるようであった。やはり西洋人のように美しい婦人がふたりいて、松葉杖の米子と三人でイーゼルをならべていた。ひとりの婦人はフランスでロダンの助手をつとめて帰ったばかりの彫刻家藤川勇造の妻栄子で、絵かきだということであった。もうひとりは、深田銀行頭取の令嬢だということであった。西洋人のような三人の婦人が、囀るように語りあいながら絵筆をはこんでいるさまをみて佐藤は、まるでパリにいるような気分になっていくのだった。
  ●
 さっそく絵の勉強について相談すると、佐伯は東京美術学校へなど入らないで、渡仏してパリで勉強しろと奨めたようだ。また、米子が「あたくしたち、ちかくもう一度パリへ参りますのよ」と言うと、佐藤はいっしょに連れてってくれとせがんだらしい。でも、自宅にもどって相談すると、佐藤家では家族じゅうが反対して許さなかったようだ。再び相談にいくと、佐伯は「ほなら里見はん紹介したるわ」と、自身も参加している1930年協会Click!の代表的な存在だった里見勝蔵Click!への弟子入りを奨めたが、米子は同じく1930年協会の前田寛治を推薦している。
 
 さて、佐藤が佐伯アトリエを訪問したとき、長谷川利行Click!の片想い相手だった、結婚後間もない藤川栄子がちょうどい合わせ、米子らとともにキャンバスに向かっていた様子が記録されている。下落合のすぐ南、戸塚町へ夫とともに自宅兼アトリエをかまえていた彼女は、おそらく頻繁に目白崖線を上って佐伯アトリエを訪問していたのだろう。余談だけれど、藤川栄子Click!の旧姓は「坪井」で「坪井栄(子)」だった。四国の高松出身だった坪井栄が、同じく小豆島出身の壺井栄と仲よくなり、下落合界隈をよく散歩するようになるのは、こんなところにも原因がありそうだ。
★その後、本名が「岩井栄」の壺井栄は、1938年(昭和13)発行の「文藝」9月号に掲載された『大根の葉』で作者名を「坪井栄」と誤植され、藤川栄子の本名「坪井栄」と混同された可能性のあることが判明Click!している。
 同じ画家仲間や美術評論家の間では、おおよそ佐伯のパリ作品に偏重した評価が目立つ中で、彼女は一連の『下落合風景』シリーズClick!を大きく評価している数少ない画家のひとりだ。1928年(昭和3)に佐伯がパリで死んだ直後、『アトリエ』10月号に掲載された文章から引用してみよう。
  ●
 その後ある機会から佐伯夫妻をグループの中心として目白の奇異なアトリエによく夜を更かすやうな事が度々ありました。(中略) 夫妻は毎日殆ど制作をしてゐました。訪問する度に次から次へと鋭角的な作品が壁面に凡て歪で掲げられてありました。(中略)/昨年の二科に出品されたと(ママ)落合風景は日本での試みであつたが実に立派に成功してゐられたやうに思ひます。/外国での特殊なモチーフを描いてゐた氏には、日本でのモチーフには興味がのらないのではないかと思つてゐましたのに、あの落合風景は、落合郊外を切りとつたやうに鋭く端的に表現されてゐたと思ひます。先日ある画商でこの作品に接した時に、日本での作品では傑作だと思ひました。
                                      (藤川栄子「佐伯さんのこと」より)
  ●
 
 わたしも、佐伯の一連の『下落合風景』は、帰国中にやむなく描いた“余技”的な風景画ではなく、2回めのパリ作品の表現へとつながる重要な位置づけの作品群として、もっと評価されてしかるべきだと考えているので、藤川栄子の意見には同感だ。また、この文章から1928年(昭和3)の段階、つまり佐伯の生前と思われる時期から、『下落合風景』が東京の画商の間で流通していたのは注目にあたいする。従来、下落合の風景画連作は、兄・祐正を中心とした「頒布会」を介してほとんどが関西方面に流れたか、あるいは1930年協会展Click!や紀伊国屋書店での個展Click!などを通じて、少数が東京で売れたと考えられているが、東京で販売する専属の画商ルートも実は存在していたのではないだろうか? そのルートの詳細が解明されれば、『下落合風景』をめぐる新しい局面が見えてくるのではないか?・・・そんな気がするのだ。
 1927年(昭和2)の夏、湘南・大磯Click!からもどった佐伯は1週間で渡仏の準備を済ませ、シベリア鉄道経由でパリへ向かうことになる。藤川栄子は夫の藤川勇造とともに東京駅のホームまで佐伯一家を見送り、最後に家族3人と握手して別れている。

 佐藤英男はその後、1933年(昭和8)に新婚旅行であこがれのパリの地を踏んでいる。その際、佐伯から紹介された里見勝蔵や川口軌外Click!など、1930年協会の流れをくむ独立美術協会に属した画家たちに見送られている。佐藤が池袋から武蔵野鉄道線に乗り、何度か下車したふたつめの駅・椎名町だけれど、同駅のすぐ北側に初見六蔵・こう夫妻によって桜ヶ丘パルテノンClick!と呼ばれるアトリエ村が生まれるのは、もう少しあとの昭和10年代になってからのこと。
 そのころから、佐藤は長崎界隈のアトリエ村を中心に画家たちが集った、いわゆる「池袋モンパルナス」Click!の盛衰を目の当たりにするのだが、それはまた、別の物語。

■写真上:左は、佐伯アトリエの北面採光窓。右は、佐伯アトリエを姉とともに訪ねた佐藤英男。
■写真中上:左は、1919年(大正8)に描かれた里見勝蔵の『自画像』。右は、1921年(大正10)に描かれた前田寛治の『自画像』。ともに、東京美術学校の卒業制作課題。
■写真中下:左は、周囲の濃い屋敷林が防火壁となり島状に焼け残った、1947年(昭和22)の空中写真にみる佐伯アトリエ。右は、パリで新たに発見された佐伯祐三『カフェ・タバ』で、1927年(昭和2)ごろの作品と思われる。いのうえさんClick!からご教示いただいた。
■写真下:1947年(昭和22)の空中写真にみる、椎名町駅北側の桜ヶ丘パルテノンの全貌。