1970年代半ば、「銀座百点」(銀座百店会)にエッセイを連載していた向田邦子Click!は、その中で岸田劉生Click!についてこんなことを書いている。
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 岸田劉生晩年の作に「鵠沼風景」という日本画がある。
 十年ほど前に、売立会でこれを見て一目で気に入ってしまい、身分不相応を承知で何とか手に入れたいとジタバタしたのだが、もう一息というところで値段の折り合いがつかず涙を呑んだことがあった。最近になってこの類品を見つけ、また虫が起って聞いてもらったが、もう私如きの手に負える金額ではなかった。   (向田邦子「ねずみ花火」より)
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 ここで書かれている『鵠沼風景』Click!とは、有名な藤沢時代の油絵ではなく、劉生が晩年の鎌倉期にでも描いた軸作品のひとつなのかもしれない。劉生は、油彩画ではなく日本画も多く残しているけれど、若いころには水彩もよく描いていた。そんな中、水彩による風景画で『落合村ノ新緑』という作品を残している。
 きょうは、ちょっと強引な仮説にもとづく描画ポイントの推定をやってみたい。上の絵は、1906年(明治39)に東京高等師範付属中学校を3年生で中退した直後、1907年(明治40)の夏に描かれたと、従来よりいわれてきた作品だ。キャプションに「7月3日」と、日付までが入れられている図録までが存在する。ところが、夏の暑い盛りに繁る樹木の葉を「深緑」とは呼んでも、誰も「新緑」とは呼ばない。もう少し描かれた時期は早く、わたしは同年の晩春か初夏のころではないか?・・・などという仮説を立てている。地面に生える草の様子などからも、おそらく同年4~5月ごろの作品ではないか。
 「7月3日」という日付が、画布の裏側に記載されているということだが、収蔵先である東京国立近代美術館では、劉生の自筆であるかどうかは不明とのこと。だから、当の東京近美のサイトをはじめ、多くの図録にはあえて日付まで入れられていないのだろう。つまり、誰かがあとから書き加えたという想定ができてしまうのだ。では、なぜ真夏の作とされているのかというと、劉生はこの年の7月から11月まで、宇都宮を中心に栃木県方面へ写生旅行に出かけているからだと思われる。栃木県の上都賀郡と下都賀郡には、確かに“落合村”が存在していたので、そのほうが後世の作品の分類・整理には都合がよかったのかもしれない。でも、画面に描かれたような「新緑」が映える季節には、劉生は栃木県ではなく東京の銀座にいたのだ。
 長兄に次いで、父母を相次いで亡くした劉生は、1906年(明治39)の暮れに自宅近くの数寄屋橋教会で洗礼を受け、キリスト教へと傾斜している。このとき彼は、牧師になろうと決意していた。牧師から画家になろうと方向転換したのは、同教会の田村牧師の奨めによるとされるが、確かに入信の翌年から、劉生は盛んに作品の制作へ打ちこむようになる。この『落合村ノ新緑』が描かれた年、当時16歳の劉生はスケッチ散策へ頻繁に出かけるようになった。既述のように、同年の7月には友人宅を頼りながら栃木県へ写生に出かけている。そして、翌年の1908年(明治41)には、赤坂の溜池にあった白馬会の葵橋洋画研究所に入り、本格的な画家の道へと踏み出した。
 
 さて、この『落合村ノ新緑』も、そんな写生旅行の機会にどこかで描かれた作品だろう・・・と、画布裏の誰の筆跡か不明な日付とともに、いままで漠然と思われてきたようなのだが、1907年(明治40)の「新緑」が美しい季節に、劉生はどこにも旅行していない。つまり、東京にいながら同作を描いた・・・ということになる。東京国立近代美術館サイトの同作の紹介では、「7月3日」という日付は入れられていないし、「署名」はあるけれど「日付」の記載キャプションもない。とすれば、東京市近辺の落合村である可能性が高まり、必然的に東京府豊多摩郡落合村の風景なのではないか?・・・というのがわたしの勝手な想像だ。
 岸田劉生日記では、1907年(明治40)の4~5月はどうなっているのだろうか? 実は、岸田が日記をつけはじめたのは、同年の2月1日(金)。この日、彼はいきなり東京西部の山手線沿いへ、郊外スケッチに出かけた記述からスタートしているのだ。
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 二月一日 金曜日 晴
 雨は昨日霽れて今日は快晴なり、北風飄々肌を刺し寒さ常になし、郊外写生を想ひ立ちて家を出で立つ時正に十一時、冷気我を襲ふ事切にして画板持つ手亀(かが)まむとす
                            (『岸田劉生全集・第5巻―日記―』岩波書店より)
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 この日、写生に出かけたのは新宿の柏木から中野あたりにかけてだった。ところが、3月20日を最後に、日記は突然中断してしまう。次に書かれたのが、「6月13日 木曜日 雨」・・・とこれだけの記述。そして再び長い間途切れ、12月1日まで日記は空白のまま。7月から11月まで日記が書かれなかったのは、栃木県の宇都宮へスケッチ旅行に出かけていたからなのだが、3月21日から6月12日まで空白なのは、東京近郊へ繰り返し写生散策に出かけていたからではないだろうか?
 自宅が銀座の劉生が、当時は東京市外にあった落合村へとやってくるのに、それほどたいへんな手間と時間はかからなかっただろう。品川から、前年に国有化されたばかりの山手線に乗り、目白停車場Click!で降りればいいのだ。ちなみに、当時の山手線はまだ環状ではなく、また高田馬場駅はいまだ開設されておらず、落合村へアクセスする最寄り駅は目白停車場ひとつだった。作品の情景から判断すると、劉生は目白駅で下車したあと、目白通り(旧・清戸道)を西へと歩いたのだろう。目白通り沿いに建っていた人家が途切れ、3年前に死去した近衛篤磨邸の広大な屋敷森を左手に、劉生は南側、つまり下落合側へ目を向けながら歩いていった。そこには、広々とした草地や畑地が見え、まだ宅地化の波が押し寄せる前、のどかな田園の下落合風景が拡がっていた。
 劉生がふと目をとめて、目白通りから南側の草地、あるいは開墾直前の畑地へと入りこんだポイントがあった。東京同文書院Click!の先を、左折(南折)したあたりだ。草地や畑の向うに、晩春の青々とした新緑の林がつづいている。木々の中には、幹の上半分しか見えないものもあることから、そこに小さな谷間が横切っているのがわかる。劉生がさらに近づいたら、谷底には泉が湧き、満々と水をたたえたいくつかの池が視界に入っただろう。彼は武蔵野原生林の新緑を描こうと、林のかなり手前でイーゼルを組み立てはじめた。・・・と、わたしの想像はつづく。

 劉生が『落合村ノ新緑』を仕上げてから数年後、早稲田大学へと通う若山牧水Click!は、同様に下落合へ散歩しにやってきた。そのとき、「落合遊園地」と名づけられたこの谷間を見つけて、『東京の郊外を想ふ』に採録している。のちに、「林泉園」Click!と呼ばれるようになる下落合の谷戸のひとつだ。さらに5年後、画面の右外れと思われるあたりには、落合(目白)福音教会が移転してきて、礼拝堂や宣教師館Click!が建てられることになる。そして9年後、この谷戸の北側に、赤い屋根の小さなアトリエが建設された。一時期、劉生とも交叉した中村彝Click!のアトリエだ。16歳の劉生には、自身の「白樺」への参加Click!をはじめ、のちにそんな物語が織り重なる土地Click!になろうとは夢にも思わず、当時はただ単に東京郊外に拡がる瑞々しい新緑風景を写しとったにすぎなかっただろう。
 以上が、「新緑」と「7月3日」日付の謎をめぐるわたしの仮説だ。キャンバス裏の日付が劉生の筆跡でないとすると、いったい誰がいつ、なんの目的で書き加えたのだろうか・・・?

■写真上:岸田劉生が16歳のときの作品『落合村ノ新緑』(1907年・明治40)。
■写真中:左は、1908年(明治41)に撮影された17歳の劉生。自作の風景画とともに、写真館で撮られたものだと思われる。右は、1910年(明治43)の「早稲田・新井1/10,000地形図」の落合村。
■写真下:1936年(昭和11)の空中写真にみる、「落合遊園地」(のちに「林泉園」)の大きく西へとカーブした谷戸。29年後の姿だが、住宅街となったあともどこか作品の面影をとどめている。