あたりがすべて閑静な住宅街という環境の中に、突然、小規模な商店街が形成されていることがある。大通りや表通り沿いの商店街とは異なり、住宅街に密接したところは食品や生活必需品など、日々の暮らしに欠かせない品物を売る小店舗のケースが多い。下町Click!では、別にめずらしくもなんともないけれど、乃手の住宅街に形成されているのはめずらしい。戦前の目白・落合地域でも、そんなミニ商店街がところどころに見られた。
 以前、吉行あぐりのバー「あざみ」Click!や、尾崎翠の記事Click!でも少しご紹介したけれど、上落合では各時代ごとに道路整備や西武電鉄の開業、区画整理や河川の整流化工事、住宅街の拡大などにともない、早稲田通りや補助45号線沿いばかりでなく、住宅街の中にもいくつかの商店街が形成されてきた。ターミナル駅へ交通の便がよくなり、スーパーやコンビニに押されているとはいえ、それらの商店街はいまでもあちこちでがんばっている。
 
 下落合でも、目白通り沿いや駅前ばかりでなく、そのような商店街が住宅地のまん中に形成されている。ひとつは、本来なら下落合の駅前商店街となるはずだった、氷川明神界隈の雑司ヶ谷道Click!から田島橋Click!方面にかけてだ。戦後まであった「駅前交番」をはさんで、西側と東南側にかけての道筋に、住民の暮らしに密着した商店街が形成されている。下落合駅の西への移転Click!や、十三間道路(新目白通り)の開通などで、商店街と呼べるほどの規模ではなくなり、お店がぽつんぽつんと点在するだけの道筋になってしまった。その面影は残っていて、青物屋や魚屋、蕎麦屋Click!などはつい最近まで営業していた。
 もうひとつの商店街は、目白通りの子安地蔵から七曲坂の上まで、下落合の住宅街を斜めに横切る道筋の途中に形成されていた。位置的には、箱根土地の堤康次郎邸Click!があった下落合575番地のすぐ西側、本田宗一郎邸が建っていた下落合公園Click!のすぐ目の前を、東西へと通う道沿いだ。この道筋は、子安地蔵通りをはさんでややカギ状に屈曲しながら、諏訪谷Click!近くの牧野虎雄Click!アトリエや曾宮一念Click!アトリエの前、つまり久七坂筋の道を越え佐伯祐三Click!が「セメントの坪(ヘイ)」Click!に描いた前の道路へとつづいている。
 
 1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」や、その少し前に作られたとみられる「出前地図」を参照すると、さまざまな商店が並んでいた様子がわかる。子安地蔵通りに面した福島屋菓子店をはじめ、お菓子屋の跡に開業した落合歯科Click!(幡野歯科医院)、なんのお店かわからない武蔵屋、魚屋の魚政、かちどき(現存する薬局と同じ店だろうか?)、近江屋(質店か?)、はつね屋(?)、敬文堂印刷所、文化堂(古書店?)、小堀牛乳店・・・と、いずれもごく小範囲な地元のニーズに密着した商店が並んでいたようだ。
 これらのお店の役割りは、もちろん近所をまわる“御用聞き”Click!も大きな仕事だったろうが、家庭で急に入用になったり、御用聞きへ注文し忘れたりしたときに主婦や女中さんが急いで買いに走った、わざわざ目白通りまで出なくても済む、「家の近くの便利なお店たち」でもあったにちがいない。目白通りの、いわゆる「表店」(おもてだな)である大きな商店とは異なり、あるエリアの家々に密着して住宅街の中に形成された、おそらくニッチな需用を満たすミニ商店街だったのだろう。
 
 旧・下落合の西部にも、このような小さな商店街は形成されている。特に、府営住宅Click!や目白文化村Click!の周辺には、わずか5~6軒ほどの小さな商店街がところどころに造られていた。でも、これらの住宅街密着型のミニ商店街は、戦後、大通り沿いに開店した大型店やスーパー、コンビニなどに顧客を奪われつづけ、少しずつ姿を消していった。

■写真上:子安地蔵通りから入ったミニ商店街の道筋で、右手に「魚政」や「近江屋」があった。
■写真中上:左は、左手に「小堀牛乳店」があったあたりで、背後には「清水自動車」や青果店が並んでいた。右は、画面右手に「福島屋菓子店」のちに「落合歯科」が開業していた一画。
■写真中下:左は、1926年(大正15)制作の「下落合事情明細図」にみるミニ商店街の様子。右は、その少し前に作成されたと思われる南北逆の「出前地図」の同エリア。
■写真下:左は、本田宗一郎邸跡にできた下落合公園。右は、同公園のオープン時の様子。