1915年(大正4)前後に佐伯祐三Click!が、大阪府立北野中学校Click!の野球部に在籍し、ポジションは中堅(センター)を守り、ときにはリリーフピッチャーとして活躍したことは、ここでも何度かご紹介している。1916年(大正5)の4月からは、野球部の主将(キャプテン)をつとめていたようだ。佐伯が参加した試合や、その勝敗の詳細な資料は、地元・大阪の北野中学関連の資料ではなく、東京の後楽園にある野球博物館に保存されていた。ある方が、わざわざ資料を調べてお送りくださったので、その詳細をご紹介したい。
 まず、佐伯関連の展覧会図録の年譜や評伝などに書かれている内容は、かなり不確実な情報(おそらく友人たちの伝聞や誤記憶にもとづくものか?)であるのがわかる。佐伯の背番号は8番で、打席は常に1番、リーディングヒッターだったことがわかる。1915年(大正4)の11月16日午前8時30分より、三高グラウンドで開かれた京都第三高等学校野球部主催による「御大礼奉祝記念中等学校連合野球大会」2日目の試合では、佐伯のいる北野中学は京都第五中学校と対戦し勝利している。ヒットが両校合わせて13本、四球が9、エラーが合計で14も出る、今日からみれば少々大味なしまらない試合だったようで、北野中学は12対8で京都五中をくだしている。この大会はトーナメント制ではなく、近畿地方にある中学校同士の交流戦的な性格が強いので、このとき北野中学が闘ったのはこの勝利した1試合のみだった。

 ちなみに同年から、のちに「全国中等学校野球大会」(現・全国高等学校野球大会)と呼ばれるようになる、第1回の「全国中等学校優勝野球大会」が開催されているが、そのトーナメント予選であるスポーツメーカー「美津濃」が主催した大阪・奈良・和歌山の「連合野球大会」に、北野中学が出場した形跡はない。翌年、「連合野球大会」から大阪地区が独立し、大阪商業高等学校主催による地区予選大会が開かれるが、北野中学が参加するのはこのときからだ。
 佐伯の『生誕100年記念・佐伯祐三展』の図録(1998年発行)に掲載されている、「1916年(大正5) この頃:北野中学野球部で活躍。主将になり、三高の野球大会で平安中学に勝ったり」・・・とあるのはおそらく誤りで、前年の1915年(大正4)に北野中学は京都五中と対戦して勝利・・・が正確な記述だろう。京都三高主催の「御大礼奉祝記念中等学校連合野球大会」は、翌年も連続して開催されたという記録は見あたらない。また、北野中学は翌1916年(大正5)には、全国中等学校野球大会(現・全国高等学校野球大会)の大阪大会のほうへ出場している。ひょっとすると、三高野球部を中心とした中学連合の大会は、全国中学校野球大会へと吸収され、このとき発展的に解消されたのかもしれない。また、三高主催の野球大会で京都五中をくだしたとき、北野中学の佐伯はまだ4年生であり、「主将」をつとめていたとも思えない。佐伯が野球部のキャプテンになるのは、1916年(大正5)の4月以降に5年生へと進級してからのことだろう。
 
 この対・京都五中戦で、北野中学野球部のねばり強さが目立ったものか、1916年(大正5)に発行されたベースボールの専門誌『野球界』1月号で、佐伯祐三の名前が掲載されることになる。おそらく、のちに赤い鳥社Click!の野球クラブで活躍した深沢省三Click!が、中学時代に野球雑誌を見ていて佐伯の名前を知ったというのは、この『野球界』を愛読していたからだと想定できる。このころから野球好きの間では、北野中学野球部の名前は全国的に知られるようになったらしい。
 ではなぜ、『生誕100年記念・佐伯祐三展』の図録に編纂された年譜では、先のような錯誤が生じたのだろうか? 佐伯が主将になったのは翌年度と思われるので、時間的なズレはわずか半年間ほどなのだが、対戦相手の学校名を取り違えたのはどうしてだろう? 野球博物館の資料に目を通すうちに、同時に三高主催の野球大会に出場した平安中学校のラインナップを見ていてふと気がついた。平安中学にも、2番バッターで「佐伯」という選手がいるのだ。北野中学の佐伯祐三と、平安中学の「佐伯」とで、年譜制作のときに採集したどなたかの証言に記憶違いの混乱や、齟齬が生じていたのではないだろうか? ちなみに、平安中学はこの大会で郡山中学と対戦し、7対9で敗れている。「佐伯」選手のいる敗れた平安中学の記憶と、勝った佐伯祐三のいる北野中学の記憶とがゴッチャになってしまったものだろうか。
  
 さらに、佐伯祐三が北野中学を卒業した直後、同じ北野中学の野球部にも、ほどなく同姓の「佐伯」という選手が在籍することになる。(1921年に結核で夭折した佐伯祐三の弟・佐伯祐明だろうか?) このもうひとりの「佐伯」選手の存在から、全国中等学校野球大会(大阪地区予選)などをめぐる記憶の混乱や、齟齬が生じている可能性が高いと思われる。
 さて次回は、佐伯祐三が野球部のキャプテンとして参加した、1916年(大正5)の全国中等学校野球大会の大阪大会(地区予選)について書いてみたい。確かに、佐伯は「二度」出場しているのだ。そして、タイムリーヒットにより大量得点をたたき出している。

■写真上:ベースボール人気は、大学野球を中心に明治末ごろから火が点いた。写真は1902年(明治35)の野球絵はがきで、中野にあった早稲田大学の運動場。同年に早稲田の本学キャンパスに隣接して戸塚球場(のちの安部球場)が完成すると、中野の運動場は野球に使われなくなる。
■写真中上:1915年(大正4)11月現在の、北野中学野球部のラインナップ。注目の強豪チームを紹介する1916年(大正5)発行の『野球界』1月号で、中堅(センター)の佐伯の名前が見える。
■写真中下:左は、1915年(大正4)に豊中球場で行なわれた第1回の「全国中等学校優勝野球大会」の始球式。投げているのは、当時の大阪朝日新聞社の社主だった村山龍平。右は、佐伯が第1次渡仏からもどった1926年(大正15)8月に行なわれた「全国中等学校野球大会」の様子。佐伯が実家へ帰っていたとすれば、この試合を見ているかもしれない。
■写真下:左は、おそらく佐伯が野球部の下級生だったころのユニフォーム姿。中は、1915年(大正4)11月16日に行われた対・京都五中の試合結果を伝える記事で、背番号8の佐伯はトップバッターだった。右は、やはり同姓の「佐伯」選手が在籍していた平安中学校のラインナップ。