高良とみ(和田とみ)というと、戦後に旧・ソ連や中国など共産圏諸国との友好交流や国交回復に大きな役割りを果たしたからか、肩書きが外交畑の政治家および婦人運動家となることが多いけれど、生涯全体を見わたしてみると、米国で取得した哲学博士あるいは思想家、教育家、心理学者、キリスト者という表現のほうが、ある側面ではピッタリくるような気がする。
 または、一種の「冒険家」でもあるだろうか? 生涯師事したタゴールをはじめ、新渡戸稲造、ジェーン・アダムス、野口英世、ガンジー、魯迅Click!、内山完造、宮本百合子Click!、市川房枝、ロマン・ロラン、岩崎美喜(澤田美喜Click!)、近衛文麿Click!、郭沫若・・・etc.と、その交友関係はとてつもなく広範だ。変わったところにも業績を残していて、米国で行なった小さな洗濯ばさみの先に風船を付けて胃の中に入れ、それをふくらませて「飢餓と行動の関係」を調べる彼女オリジナルの実験スタイルや手法は、その後、胃カメラの開発に応用されている。
 高良とみが下落合界隈へ足を踏み入れたのは、結婚する前の和田とみ時代だ。当時、日本女子大で心理学教授をつとめていた彼女は、弟が早大進学のために上京するのに合わせて落合に自宅および研究室を建設している。女性の学者は、生涯を独身で通す・・・というのが当たり前だった時代なので、まずは住む家と研究室を建てたものだろう。帝大を出た牧田らくClick!のように、結婚して主婦になってしまう学者は、逆にめずらしかったのだ。1983年(昭和48)に出版された『非戦(アヒンサー)を生きる』(ドメス出版)から、そのあたりを引用してみよう。
  ●
 その頃、福岡にいた家族が、弟新一の早稲田大学への進学を機会に東京へ出てくるというので、私は落合に家を建て、そこに研究室をつくって大いに研究をいたしておりました。そこへ、九大時代から親しく手紙のやりとりをしていた高良武久が、慈恵医大に赴任して来ました。それを機に私たちはいよいよ結婚しようということになり、一九二九(昭和四)年の一〇月に本郷教会で結婚式を挙げたのです。(同書「行動する心理学者として」より)
  ●
 
 これによれば、和田とみが落合のどこに家と研究室を建てて住んでいたかは不明だが、おそらく彼女が30歳を迎えた昭和初期のころだと思われる。「九大時代」と書いてあるけれど、彼女は九州帝大へ赴任していた時代があった。当時の九州帝大の雰囲気については、夢野久作が1935年(昭和10)に10年の歳月をかけて刊行した『ドグラ・マグラ』Click!あたりで知ることができる。
 1929年(昭和4)には高良武久と結婚して高良とみとなるが、そのあともふたりは下落合を離れていない。面白いのは、高良武久の母親が高良登美であり、高良家には「とみ」さんがふたりになってしまったことだ。この姑は、いつもニコニコして高良とみを終始バックアップしているので、非常に視野の広い優れた女性だったのだろう。新婚生活は、「八島さんの前通り」Click!に面した1930年協会や独立美術協会へ参加した洋画家・笠原吉太郎Click!アトリエの、数軒おいた南隣りだった。
  ●
 家は、南原繁さんの家から西へ三軒目にある、一階建ての西洋館を借りました。庭にはフレームがあってハイカラな家でした。その家で、私はまず最初に結婚祝いにもらった無水なべを使ってステーキを焼いたのです。ところが火が少々強すぎたとみえて、できあがったステーキを食べた武久から、「これはまるで雪駄の裏みたいだ」とひんしゅくを買ってしまいました。 (同上)
  ●
 
 
 「とみ子さんは料理が下手である」(同書)というのが家内の定評となり、以降は姑の高良登美が料理を担当して、数十年にわたり家族に食べさせていた。また、文中に南原繁邸から「西へ三軒目」と書いてるが、この通りは南北に走っているので、明らかに北へ三軒目の誤りだ。(昭和初期の当時は下落合679番地、のち1935年前後の地番変更で680番地) 「とみ子さんは方向音痴である」・・・という定評もなかっただろうか?
 高良家には、並びに住んでいた笠原吉太郎がときどき姿を見せていたようで、彼が描く「下落合風景」Click!を何点か購入しては居間に架けていた。両家の交流については、笠原家の次女である安東寿々代が、『美術ジャーナル』の復刻第6号(1973年・昭和48)へエッセイを寄せている。ちなみに、高良とみは子供が産まれると、母乳に「脚気の気がある」ということで授乳ができず、3軒隣りの南原繁夫人へ乳をもらいに毎日三度も出かけていた。その後、高良家は1940年(昭和15)に、「八島さんの前通り」から妙正寺川沿いの昭和橋Click!近くへ、自邸と夫の仕事である森田療法の実践施設「高良更正院」(のち「高良興生院」)を建設して引っ越すことになる。


 1945年(昭和20)4月13日夜半、目白文化村Click!の第一文化村と第二文化村を焼いた神田川・妙正寺川沿いの空襲Click!では、高良とみは防空壕から飛び出し、水位が低かった妙正寺川の川中へ一家で避難して、焼夷弾が命中した高良更正院(高良興生院)の病棟や隣接する白百合幼稚園の消火に追われるのだけれど、それはまた、別の物語。
★その後、第一文化村と第二文化村は4月13日夜半と、5月25日夜半の二度にわたる空襲により延焼していることが新たに判明Click!した。

■写真上:左は、旧・下落合679番地(のち680番地)の「八島さんの前通り」に沿った、高良武久・高良とみの新居跡界隈。右は、旧・下落合702番地の母乳をもらいに通った南原繁邸跡。南原が退職するとき、東大生たちが建築した門がここに建っていたが現在はない。
■写真中上:上左は、米国の大学でドクターを取得した1922年(大正11)の和田とみ(高良とみ)。上右は、ジェーン・アダムスの案内役をつとめていたころの和田とみ。1923年(大正12)ごろの撮影か。下左は、1922年(大正11)ごろ九州帝大時代の和田とみ(手前左)。背後に立っているのは新渡戸稲造。下右は、1924年(大正13)に来日したタゴールの通訳をつとめる和田とみ。
■写真中下:左は、1926年(大正15)発行の「下落合事情明細図」にみる高良邸。結婚前なので、まだ引っ越してきていない。右は、1936年(昭和11)の空中写真にみる高良邸。
■写真下:上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる高良邸(左が北)。吉田博アトリエClick!や笠原アトリエが採集されているけれど、またしても前者を「吉岡博」、後者を「小笠原」と誤って記録しており、「火保図」の名前はいい加減でアテにならない。下は、1947年(昭和22)の空中写真に見る元・高良邸。1940年(昭和15)から建て替えられていないとすれば、まさにこの邸だ。