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佐伯の「中原」看板は人名ではなく地名だ。 [気になるエトセトラ]

中原工○看板.jpg
 わたしは、松本清張が1961年(昭和36)に書いた『砂の器』に登場する今西刑事と同じ間違いを犯してしまった。佐伯祐三Click!が1926年(大正15)の初秋ごろに描いたとみられる『踏切(踏み切り)』Click!だが、山手線の踏み切りをわたった左手にある踏切番小屋の背後に建っていた、アパートの壁面に架けられている「中原工○」という看板の「中原」を、てっきり人名だと思いこんで目白・池袋周辺をしらみつぶしに調べてきた。ところが、これは人名などではなく、山手線・池袋駅のすぐ西側にあった字(あざな)なのだ。
 佐伯祐三が『踏切』を描いた当時の住所表記は、西巣鴨町大字池袋字中原。佐伯の描画から数ヶ月後、1926年(大正15)12月1日に東京市町事情研究会が発行した「西巣鴨町西部事情明細図」を参照すると、「中原」はまさに立教大学が建っているエリアで、同大学あるいは町立第五小学校の東南側には大小の工場が密集している街角だった。さらに東南側には、池袋駅西口近くの豊島師範学校が建っていた。中原には時計工場や乾電池工場などが並んでいるので、精密機械関連の製作所が多く集まって操業していたものだろうか? また、同エリアの北側には豊島にあった「東京牧場」Click!のひとつである、和田牧場(大字池袋字境井田997番地)が開業している。看板の「中原工○」の文字の下に見える、「乳○○」と読める文字が、やはり強くひっかかる。
藤野邸大正時代.jpg
 この事実に気づいたのは、西巣鴨町大字池袋字大原1401番地(現・西池袋2丁目)へ大正期に建てられた、藤野邸の写真を三春堂さんからいただいたからだ。藤野邸の位置は、目白通りから現在の目白庭園へ向かって歩き、踏み切りを渡った向こう側にある上屋敷(あがりやしき)公園に隣接している一画だ。自由学園もほど近く、これからはクルマが減るにも関わらず消えない補助73号線Click!の、税金ムダづかい道路計画さえつぶしてしまえば、この先もずっと閑静な住宅街がつづくであろう一帯に、1922年(大正11)築の藤野邸はいまから15年ほど前まで現存していた。
 藤野邸は、600坪の敷地に下見板による外壁の大きな2階建て西洋館だった。ご家族の記念写真だが、右手にひとり外国人の背の高い女性が写っているのは英語の家庭教師とのこと。立教大学か自由学園Click!、あるいは豊島師範学校Click!の教師でもあったのだろうか。米国で生活したこともあるご主人が、米国風の文化生活をめざして建てた邸で、目白文化村Click!の第一文化村や近衛町Click!が建設されたのと同時期に竣工しているのは興味深い。広い庭には、テニスコートや芝庭、バラ園、ボイラー・ポンプ小屋などがあり、相当ハイカラな風情だったろう。レンガによって邸の基礎が築かれているので、地下室の設備(ワインセラーなど)があったのではないだろうか。ひょっとすると、藤野邸もあめりか屋Click!が手がけているのかもしれない。
 当時、周囲には麦畑が拡がり家々が散在する程度だったので、藤野邸からは目白駅方面までが見わたせたという。同邸の最寄り駅は、武蔵野鉄道線(現・西武池袋線)の上屋敷駅Click!だったと思われるが、目白駅へも徒歩10分ほどで出られるので、2駅利用の便利な立地だったろう。以前、刑部人Click!が1929年(昭和4)に描いた『初秋の庭』Click!の、斎田捷三邸もほど近い場所だ。
中原事情明細図.jpg
 藤野邸の位置と、当時の周囲の様子を確認するために、「北豊島郡巣鴨町・西巣鴨町全図」(1929年・昭和4)あるいは「豊島区詳細図」(1933年・昭和8)を眺めていたら、藤野邸から北へ400mほどのところにあった「中原派出所」という交番名が目に飛びこんできた。すでに「中原工○」を見つけるため、何度となく眺めている「西巣鴨町西部事情明細図」(1926年・大正15)を取り出して見ると、細かな工場や店舗、個人邸にばかり注意を払い、大きく描きこまれた地名には意識を向けていなかったウカツさに改めて気づいたしだいだ。確かに同図の丸囲み地名表記は、非常にわかりにくいレイアウトであることも確かなのだけれど・・・。いまだ、「中原工○」という工場は発見できていないが、大正末ごろ中原地区に存在していたのは、おそらく間違いないだろう。
上屋敷公園.jpg 藤野邸1947.JPG
上屋敷駅跡.JPG 藤野邸事情明細図.jpg
 周囲の地名を鳥瞰していて、改めて面白いことに気づく。下落合や沼袋、江古田、芝、小金井などと同様に、ここにも谷端川沿いに「丸山」Click!という地名が刻印されている。長崎氷川明神(現・長崎神社)や弁天社の北側にもあたる領域だが、周辺に散在する「塚」の付いた旧地名とともに、農地化される以前は、規模の大きな古墳群が存在していたことを示唆する興味深い地域だ。

■写真上:1926年(大正15)9月ごろに制作されたとみられる佐伯祐三『踏切』に描かれた看板。
■写真中上:大正期に撮影された、西巣鴨町大字池袋字大原1401番地にあった藤野邸。
■写真中下:同「事情明細図」にみる大字池袋字中原のエリアで、工場の記載がたくさん見える。
■写真下上左は、藤野邸に近接する上屋敷(あがりやしき)公園。上右は、1947年(昭和22)に米軍によって撮られた空中写真にみる藤野邸。下左は、武蔵野鉄道線(現・西武池袋線)の上屋敷駅があったあたり。下右は、「西巣鴨町西部事情明細図」(1926年)にみる藤野邸。


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sig

こんにちは。
まさに推理小説ですね。
私は看板の右の文字が「月」にしか見えませんでしたが、Chinchikoさんは虫眼鏡ででも観察されたのでしょうね。
こういうお話は楽しいですね。それにしても藤野邸の豪華なこと。
(その写真の2行上の最後の「中川工○」は「中原工○」でしょうか)
by sig (2008-12-10 10:07) 

ChinchikoPapa

ハービー・ハンコックはあまり好きではないkey奏者なのですが、「Speak Like A Child」はときどき聴くアルバムです。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2008-12-10 11:27) 

ChinchikoPapa

ちょっとというか、かなりLUSHに惹かれてしまいました。匂いもやさしそうですね。
nice!をありがとうございました。>まるまるさん
by ChinchikoPapa (2008-12-10 11:33) 

ChinchikoPapa

歌謡曲をあまり聴かないわたしでも、古賀メロディーは口ずさむことができます。
nice!をありがとうございました。>一真さん
by ChinchikoPapa (2008-12-10 11:37) 

ChinchikoPapa

sigさん、いつもコメントとnice!をありがとうございます。
さすがに虫眼鏡は持参しませんでしたが、「踏切」所蔵先の出光美術館で細かく観察させていただきました。やはり、図録や画集などの写真で観るのと、現物を目の前で観察するのとでは、まったく印象が違います。現物の画布をいろいろな角度から観ますと、筆運びや重ね塗り、下塗り、キャンバス地の様子がよくわかりますね。わたしも、画集では「月」の字のように見えていたのですが、佐伯の一気に描いたらしい筆跡の凹凸は、間違いなく「中」という文字でした。
「中川工○」のご指摘、ありがとうございました。さっそく修正いたしました。このごろ、なかなか原稿制作に集中できず、誤字や誤変換がありそうです。なにかお気づきの点がありましたら、ご遠慮なくご指摘ください。
by ChinchikoPapa (2008-12-10 11:49) 

ChinchikoPapa

この季節になると、ユリカモメの群れが神田川をさかのぼり、早稲田の面影橋までやってくることがあります。nice!をありがとうございました。>西尾征紀さん
by ChinchikoPapa (2008-12-11 11:24) 

ChinchikoPapa

こちらにも、わざわざnice!をありがとうございました。>mwainfoさん
by ChinchikoPapa (2008-12-13 17:28) 

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