目白橋から聖母病院フィンデル本館Click!の尖塔が見通せた、戦後すぐの1946年(昭和21)、目白通り沿いの建物疎開Click!でできた空地に、きらめくイルミネーションとともに忽然と喫茶店が出現した。少したって書店も併設されることになる、小庭を備えた喫茶店「桔梗屋」だった。のちに、「目白文化協会」が結成される拠点となったコーヒーショップだ。
★目白通り沿いの建物疎開は、1945年(昭和20)4月2日から5月17日までの、いずれかの時期に行われているのが判明Click!している。
 戦後、なんの娯楽もなかった目白・下落合界隈で、文化的な催し物を企画しようという動きが、喫茶店「桔梗屋」へ集まった住民たちの雑談から生まれた。当時、東京都につとめていた石川栄耀が音頭をとり、「目白文化協会」と名づけられた文化団体がほどなく誕生する。そのときの様子を、1974年(昭和49)に出版された『ロマンと広告-回想 衣笠静夫-』から引用してみよう。
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 毎月一回ずつ日曜日の午前十時から集まって昼すぎまで雑談に花が咲いた。石川さんが達筆でメモをとったが『桔梗抄』と表記してあったと思う。それが幾冊か現在ものこっている。/ラジオも民放はなく、勿論テレビはない。映画は新宿か池袋まで出かけて、おしっこ臭い陰湿な活動写真館にぎゅう詰めで見る以外娯楽はなかった。/「われわれで目白に文化寄席をやって見ようではないか」ある日の集りで誰かが言い出した。/これが衣笠さんであったような気がしてならない。実行力のあるプランナーの石川さんが、その場で青写真を作った。(小野七郎「読書家 衣笠さん」)
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 当時、新聞社にいた小野七郎が、「衣笠さんであったような気がしてならない」と書いているけれど、衣笠静夫Click!はクリエイティブディレクターであったばかりでなく、稀代のプランナーでありイベンテイターでもあったので、おそらく事実そうなのだろう。目白文化協会の会長には黎明会の徳川義親Click!をすえ、副会長には丸見屋の三代目・三輪善兵衛Click!、会員には大久保作次郎Click!、吉田博Click!、鈴木誠Click!、三上知治、海津正太郎、田中耕太郎、早川巍一郎、堀口捨己、桂井富之助、辻荘一、小池岩太郎、長尾雄、蒔田英一、柳沢健、下位春吉、番匠谷英一、正田卓二、松本英夫、升本喜三郎、田辺尚雄、福井直弘、勝田保世、宝井馬琴、柳家小さん・・・etc.と、目白・下落合界隈に在住するさまざまな分野の人々が参加していた。
 
 そして、石川栄耀・小野七郎・衣笠静夫の3人が常任幹事的な役割を担うことになる。彼らが企画したのは、「目白文化寄席」という目で見て耳で聞く「雑誌」だった。
■目白文化寄席
 ・隔月一回、夜六時開演
 ・場所 目白徳川邸内黎明講堂
 ・形式 耳できく雑誌
 ・表紙 (開会のことば)
 ・絵の頁 (漫画、似顔などのパネル揮毫)
 ・随筆の頁 (会員の趣味などの発表)
 ・論文の頁 (会員の専門とする学術などを中心とする研究の平易な解説)
 ・ニュース解説の頁
 ・演芸、娯楽の頁等
 要するに、2次元の紙媒体である雑誌構成を、3次元の「寄席」メディアとして目前でリアルタイムに表現してしまおう・・・というコンセプトだったようだ。「寄席」と名づけているので、それぞれの「頁」で趣味や研究を発表する会員は、たとえば「徳川亭義親」とか「三輪亭善兵衛」とか、高座ネームを名乗らなければならなかった。寄席のスケジュールは、会員の画家たちが描いたポスターに記載され、ポツポツ復興しはじめた目白通りの商店に貼ってもらってたらしい。目白文化寄席は発足当初、娯楽に飢えていた人々の心をつかみ、300人は収容できる徳川邸の黎明講堂はいつも超満員で、入りきれないほどの人々が詰めかけていたようだ。
 
 また、目白文化協会には青年部と名づけられたグループもでき、演劇やダンスなどの会が催されていた。2006年(平成18)発行の『私たちの下落合』(落合の昔を語る集い・編)に収録されている、堀尾慶治様Click!の「目白文化協会のことなど」から、協会青年部について引用してみよう。
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 このグループに参加した目的の第一は、何といってもソシアルダンスの会でした。女性と体を寄せ合ってダンスをするなどというのは、戦争中には想像もできないこと。私には夢の世界の出来事のようでした。それが身近で教えてもらえるというのです。/進駐軍によって目白通りの名前がMアベニューとつけられ、走る車はほとんどが米軍のジープか軍用トラックという時代です。アメリカによってもたらされた欧米の香り。戦前と戦後の文化の落差の大きさは、ただただ茫然とするばかりでした。多感な青年期にこのような新しい世界に目を開かれた者にとって、何でも新しい物、目新しい文化に取り組み、どんどん吸収していきたい時代でもありました。
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 目白文化協会の活動は、戦後のごく短い期間だけだったらしいのだが、1945年(昭和20)8月15日を境に起きた社会の激変と、さまざまな価値観のコペルニクス的な転換を背景に、当時の目白・落合界隈の人々にことさら強烈な印象を残しているように感じる。当時、実際に目白文化協会へ参加した方々から証言がいただけそうなので、改めてこちらでご紹介したいと思っている。
 
 小野七郎も「読書家 衣笠さん」に書いているが、喫茶店「桔梗屋」には「桔梗抄」(「らくがき帳」とも)と名づけられた常連客用のノートが置かれていて、目白文化協会のメンバーによる活動の企画やレポートをはじめ、このコーヒーショップに集った多彩な人たちの書きこみが見られたらしい。まるで、カフェ杏奴Click!の「杏奴ノート」のようだ。ノートはその後、喫茶店「桔梗屋」が閉店したあとにできた飲み屋「ひさご」へと受け継がれたが、「ひさご」閉店ののち、現在では行方不明となっている。

■写真上:目白文化協会の活動拠点となった、喫茶店「桔梗屋」が開店していたあたり。
■写真中上:左は、1947年(昭和22)の空中写真にみる喫茶店「桔梗屋」。右は、1959年(昭和34)に下落合の自宅書斎の衣笠静夫で、背後には長谷川利行Click!の作品群が見える。
■写真中下:左は、喫茶店「桔梗屋」の敷地を南西側から。右は、1960年(昭和35)に住宅協会の「東京都全住宅案内帳」にみる桔梗屋で、すでに喫茶部は閉じられ書店のみとなっている。
■写真下:広告の親睦会「弥生会」用に衣笠静夫が作った連絡ノートで、彼自身の書きこみが見える。喫茶店「桔梗屋」に置かれた目白文化協会のノートも、このような仕様だったのだろう。