四谷にある新宿歴史博物館Click!で、開館20周年を記念して「名宝展」が開かれている。この企画展とは別に、常設展には佐伯祐三Click!が1926年(大正15)10月11日に益満邸のテニスコートを描いた『下落合風景』シリーズClick!の1作、「テニス」Click!(50号)が展示されているので、ついでに見学しに出かけた。「テニス」Click!とは、昨年(2008年)6月に横浜のそごう美術館で開かれた「没後80年・佐伯祐三展」Click!以来、10ヶ月ぶりの再会だ。企画展の「名宝展」を含め、わたしにとって興味深い作品が陳列されていて面白かった。
 まず、有料の常設展のほうに架けられた佐伯祐三の「テニス」だが、作品の前には佐伯が使っていたトランク形式の柳行李(新宿歴史博物館蔵)が、大小ふたつ展示されている。これは、下落合の佐伯アトリエにあったものではなく、1975年(昭和50)4月に大阪の実家・光徳寺の納屋で兄・祐正の連れ合い千代子夫人によって発見されたもので、佐伯が二度にわたるパリ行きへ持参したトランクだ。当時は、中身の資料類とともに神奈川県立近代美術館の学芸員だった朝日晃が千代子夫人から譲り受け、のちに1987年(昭和62)1月に新宿区教育委員会へ寄贈している。2010年に予定されている佐伯アトリエの公開時には、内部で展示されるのかもしれない。

 
 同じく「テニス」の前には、佐伯の「制作メモ」Click!がパネルにして展示されていたのだが、それを見て思わずニッコリしてしまった。「制作メモ」に書かれたタイトルの解読は、朝日晃が『佐伯祐三のパリ』(大日本絵画/1994年)で試みた解釈を踏襲せず、わたしが当サイトで2005年から試みているスキャニングによる画像解析Click!を含めて新たに解釈し直した内容Click!が採用され、展示パネルにすべて反映されていたからだ。パネルを作成された歴博のみなさん、ありがとうございました。ただ、1点だけ付け加えさせていただければ、10月23日の「セメントの坪」だけれど、佐伯は「制作メモ」で「坪」の横にカタカナで「ヘイ」とルビを振っている。おそらく、「塀」と書こうとしたところ「坪」と書いてしまい、漢字に自信がなかったせいで「ヘイ」とルビを挿入したのだろう。次に展示される際には、佐伯のメモどおり「坪」の横に「ヘイ」と、ルビを入れていただければ幸いだ。
※「セメントの坪(ヘイ)」には、制作メモに残る15号のほかに曾宮一念が証言する40号サイズと、1926年(大正15)8月以前に10号前後の作品Click!が描かれた可能性が高い。
 常設展につづき「名宝展」を見学すると、これが大収穫だった。以前、「描かれた新宿」展で実物は目にしていたのだけれど、ぜひもう一度観たいと思っていた絵画作品が展示されていた。松下春雄が箱根土地本社ビルClick!と目白文化村Click!入口付近を描いた、1925年(大正14)制作の水彩画『下落合文化村入口』Click!だ。今回の展示は、間近に観られることもあってじっくりと心ゆくまで鑑賞することができた。改めて仔細に観察してみると、面白いのは文化村入口の交番に勤務する巡査の姿までが描きこまれている点だ。この巡査が白い夏服を着ていないので、風景の樹木などの葉の繁り方や、陽光による陰影の短さなどから想定すると、この作品が制作されたのは、1925年(大正14)の5月ないしは10月ごろではないかと想定できる。絵の風情から4月以前、あるいは11月以降の風景ではないだろう。そして、手前の芝庭や植木が少し茶色がかった絵具で描かれているので、巡査が衣替えをしたばかり、10月初旬の風景ではないだろうか。
 
 
 そして1925年(大正14)現在の、箱根土地本社ビルの外壁にご注目いただきたい。この年、箱根土地本社は目白文化村の開発事業をおおよそ打ち切り、下落合から学園都市を構想していた国立Click!へと移転するのだが、松下が描いた当時はいまだ赤レンガそのままの外壁となっている。箱根土地の移転後、建物は土地ごと中央生命保険の「倶楽部」として買収されるのだが、その時点で赤レンガの外壁が白っぽいカラー(おそらくベージュ)で塗り直されているものと思われる。落合第一小学校の卒業写真Click!に写り、また林武が翌年の1926年(大正15)制作の『文化村風景』Click!に描いた白っぽい元・箱根土地本社の建物は、レンガの上から塗装し直されたあと姿だ。松下春雄の『下落合文化村入口』では赤レンガに描かれ、林武の『文化村風景』ではすでに白っぽく描かれているところをみると、ビルの外壁塗装は箱根土地が中央生命保険へ土地建物を売却して移転した直後、1925年(大正14)の後半から翌年にかけてのことだろう。
 また、小島善太郎Click!が目白駅付近から高田馬場駅の方面を向いて描いた、1913年(大正2)制作の『目白駅より高田馬場望む』Click!も展示されている。この作品は、わたしが想像していたよりもはるかに小さく、描かれた画面部は大きめなハガキに近いサイズだった。間近で観察すると、線路の左手には貨物列車を牽引する蒸気機関車のものと思われる排煙が見え、右手には大正初期までつづいた、たった1両の山手線が走っているのが確認できる。さらにもう1点、中村彝Click!の友人である野田半三Click!が、1912年(明治45)に描いた『神田上水』も展示されていた。
 
 そのほか、「名宝展」にはさまざまな美術品や工芸品が展示されているのだけれど、わたしが特に惹かれて気に入ってしまったのは、四谷の野口家に伝わる「人魚のミイラ」だ。もう、これほどグロテスクでいかがわしい「人魚のミイラ」を「名宝」と位置づける、新宿歴史博物館のフレキシブルかつスケーラブルな文化的視点が大好きだ。遊びのないところに、そもそも文化など存在しえない。ぜひ、「人魚のミイラ」をご覧になりたい方は新宿歴博へお出かけを。わたしは人魚を見たので、江戸期からの言い伝えどおり寿命も延びて、一生幸せに暮らせるだろうか?

■写真上:新宿歴史博物館の中庭で満開を迎えたコヒガンザクラ。
■写真中上:上は、佐伯祐三が記録した『下落合風景』の「制作メモ」パネル。朝日晃の解釈ではなく、当サイトと同じ内容になっていたのでとてもうれしかった。下は、佐伯が二度の渡仏時に利用した柳行李トランク。大阪の佐伯家から譲られた朝日晃が、新宿区教育委員会に寄贈したもの。
■写真中下:上は、松下春雄が1925年(大正14)に制作した『下落合文化村入口』。文化村交番あたりを拡大すると、巡査の服装は黒い冬服だ。下は、小島善太郎が1913年(大正2)に制作した『目白駅より高田馬場望む』。画面を拡大すると、山手線を走る1両電車が描かれている。
■写真下:左は、明治末の山手線を走る1両のみのボギー電車。右は、野田半三が1912年(明治45)に制作した『神田上水』。家々の背景には、目白崖線が描かれている。