長谷川利行Click!の作品群を、その膨大な蔵書とともに東京からいち早く疎開させ、空襲による焼失をまぬがれた衣笠静夫Click!のコレクションについてはすでに書いた。隅田川の東側、向島にあったミツワ石鹸の倉庫と、兵庫県龍野市にあった実家へと分散疎開させている。すでにトラックなど調達できなかった当時、その疎開作業はたいへんな労力を要しただろう。
 それに対し、軍へ寄付した高級トラックの実績、および軍へのパイプがあったせいで、その疎開には特別な配慮から軍司令部用のトラックが借りられた、佐伯祐三Click!作品の蒐集家で知られる山本發次郎コレクションの疎開において、実に判明しているだけでも60%以上(104点中62点焼失)の作品が灰になってしまったのはどうしてだろうか? ほとんどの佐伯作品が、一度めと二度めの渡仏時に描かれたもので、佐伯祐三の絶頂期を記録していた作品が多い。特に、二度めの滞仏作品がもっとも多く、蒐集58作品のうち32作品が焼失し、現存しているのは26作品にすぎない。一度めの滞仏作品は、蒐集35作品のうち、わずか13作品しか焼け残っていない。軍当局からトラックまで調達できていながら、なぜこんなことになってしまったのだろうか?
 以下は、山本發次郎が所有していた佐伯作品104点のリストだが、1957年(昭和32)に発行された『みづゑ』619号に載せられたものだ。同誌に掲載された、山尾薫明の「戦災と山本コレクションの佐伯」によれば、蒐集されていた佐伯作品は全「約150点」となっているので、疎開に失敗してリストから漏れている焼失作品が、ほかに40点余もあることになる。山尾薫明によれば、それらは「美校時代の作品、デッサン、画題の明白でない滞欧作品等約50点」ということだ。なお、下表104作品のうち小さな●印の付いている作品名が、焼失をまぬがれて現存しているものだ。

 すべてを疎開できなかった理由のひとつには、山本發次郎の美術蒐集が佐伯作品ばかりでなかったことが挙げられる。ルドンやモディリアニ、ルオーなどの海外作品をはじめ、原勝四郎、熊谷守一、そして長谷川利行(「ハゲンベックのサーカス」)なども含まれていた。また、書の蒐集品も大量にあり、白穏や慈雲、良寛、仙厓、明月などの作品が数多く存在したことも想像にかたくない。いくら軍用の大型トラックが、疎開先の岡山まで往復7回も利用できたとはいえ、それらすべてを運び出すには、やはり手間と時間がかかったのだろう。
 でも・・・と、つい思ってしまうのだ。佐伯の作品を、なぜ額装のまま運んだのだろうか? 佐伯作の多くは、山本發次郎が特別にあつらえた超高級の手作りオリジナル額に納められていた。当時の佐伯作品の価値からいえば、ヘタをすると額の製作代と佐伯作品の価格は拮抗していたかもしれない。現在でも、山本發次郎コレクションの残存作品は、作品ごとに個別彫刻がほどこされゴールド+各色に彩られた、独特なデザインの“山發額”に入れらた状態で見ることができる。
 この額を外して運んでさえいれば、おそらくもっと数多くの作品、ひょっとすると倍以上の作品が助かったかもしれないのは言うまでもないだろう。いや、佐伯自身や死後の米子夫人がパリから作品を下落合へ送ったときのように、キャンバスを思いきって木枠から外し、画布をまるめて疎開させていれば、全作品が焼失をまぬがれていたかもしれない。
 
 
 でも、疎開は額装のままでというのは、当初からの予定だったようだ。それは、疎開時に佐伯作品を選別していることからもうかがえる。つまり、トラックに額つきのまま積める範囲内で、あらかじめ作品を選んでいるということだ。その選別に関わった、先の山尾薫明の文章から引用してみよう。
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 それを全部本堂の前に陳列して選出することになり、先ず佐伯が1枚1枚に熾烈な生命の一片ずつを刻みこんだ晩年の作品から選び出すことになりました。山本さんは佐伯の全作品中、晩年2、3年間彼の制作意欲がのぼりつめ、情熱が燃え盛った時の作品ばかりにほれこんでいたため晩年の作がほとんど手のとどくかぎり蒐集されていました。従ってこの時代の作品の選択には考えれば考える程頭がいたくなりました。
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 わたしは、なぜ思いきって額から外し、少しでも多くの作品を疎開させなかったのか?・・・と考えるたびに、アタマが痛くなってくる。額など、あとからいくらでも新しいものをあつらえることができるけれど、本人没後の佐伯作品はかけがえのない存在だった。
 
 1945年(昭和20)5月15日、山本發次郎邸は神戸地区を襲ったB29の爆撃によって全焼した。美術品を納めていた、庭園の松林にあった「朝鮮の寺」も炎上した。100点余の佐伯作品とともに灰になった絵画には、同じ1930年協会の林武Click!や里見勝蔵Click!、海外の有名画家たちの作品、そして松方コレクションの工芸品などもあったようだ。

■写真上:左は、特製“山發額”で現存する1928年(昭和2)制作の佐伯祐三『煉瓦焼』。右は、疎開で焼失をまぬがれた1936年(昭和11)制作の長谷川利行『ハーゲンベックのサーカス』。
■写真中上:1957年(昭和32)『みづゑ』619号に掲載された、山尾薫明による「疎開作品リスト」。
■写真中下:わたしが個人的に惜しいと思っている、山發コレクションの佐伯作品を4点ピックアップ。上左は、1924年(大正13)ごろ第1次滞仏で描かれた『パレットを持てる自画像』。上右は、1926年(大正15)ごろ下落合制作の『運送屋』。下左は、同年ごろ下落合で描かれた『目白風景』Click!。下右は、1928年(昭和3)ごろ第2次滞仏時に制作された『裏町にて』。佐伯の「制作メモ」に残された『下落合風景』Click!の「小学生」を、『裏町にて』の子供たちは想起させてくれる。
■写真下:左は、1950年(昭和25)ごろ撮影の山本發次郎。右は、自邸の茶室で1937年(昭和12)ごろに撮影された、山本發次郎(左から2番目)と里見勝蔵(右から2番目)。