寺斉橋の南詰め、上落合716番地にアトリエをかまえて住んでいた洋画家・林重義と、佐伯祐三Click!はいつごろ知り合ったのだろうか? ふたりとも母校が北野中学校Click!(ただし林重義は中途退学)であり、同中学には両画家の作品がそろっていまに伝えられている。そして、まったく同時期に下落合と上落合に住んでいるので、地元での往来もあったのかもしれない。佐伯は、『下落合風景』の1作「上落合の橋の附近」Click!で、林の自宅近くの寺斉橋を描いている。ただし、同じタイトルを当てはめてもおかしくない作品のモノクロ画像が、もう1点Click!現存しているが・・・。
★のちに上記「上落合の橋の附近」と思われた作品実物を日動画廊のご好意で間近に拝見し、「八島さんの前通り」(1927年6月ごろ)の1作であることが判明している。詳細はこちらの記事Click!で。
 林重義は、佐伯が二度めの渡仏をしたのと同時期に、やはりパリに滞在していた。そして、佐伯が制作をしていたパリ郊外のヴィリエ・シュル・モランで、林は彼の仕事ぶりを間近で観察している。おそらく、佐伯のモンパルナスにあったアトリエにも、林は顔を出しているだろう。パリ14区プールヴァール・デュ・モンパルナス162番地の佐伯アトリエは、4階建ての貸しアトリエの3階フロアを借りて、佐伯一家の親子3人と、佐伯の長姉・杉邨(佐伯)文榮の娘で洋裁を勉強しにパリへ留学した杉邨てい(のちにハープ奏者)との4人が住んでいた。1階上の4階には、同じく洋画家の熊岡美彦が住み、1階下の2階には薩摩治郎八の夫人であり、絵を趣味にしていた薩摩千代子がアトリエとして利用していた。つまり、この貸しアトリエは日本人だらけだったことになる。
 熊岡美彦の証言によれば(1929年の『美術新論』11月号)、彼はこの建物の廊下で薩摩治郎八とすれ違っている。もともと、パリの薩摩治郎八=藤田嗣治サロンClick!を快く思っていなかった熊岡は、廊下ですれ違ってもあえて無視していたのか、「一面識もないと言つてよい」(同前)と書いている。さて、佐伯祐三はどうだろうか? 熊岡側の記録には、佐伯の名前は登場するけれど、特に親しく付き合ていた様子は見られない。薩摩治郎八(千代子)側からの資料にも、貸しアトリエにおける佐伯の記録はみられないようだ。でも、佐伯の住まいからみれば1階違いの2階と4階だ。なんらかの交流があったとみても、別に不自然ではないだろう。
 先日、川島芳子Click!のドキュメンタリーで、陸軍特務の「吉薗資料」が傍証のひとつとして、正面から取り上げられていた。周恩来とのやり取りの記録Click!が事実だったとすると、同資料の信憑性は飛躍的に高まることになる。同じく、遺言でレコードを手わたされた山口淑子(李香蘭)Click!の証言も、きわめて重要だ。もし、同資料の内容が事実だったとすれば、佐伯祐三とその周辺に与える影響ははかり知れない。ただし、わたしは佐伯が住んだ下落合で、あるいは吉薗周蔵が開院し、また牧野三尹Click!医師が開業していたその周辺域で、いまだそれらしい“ウラ取り”ができない。
 
 3階の佐伯アトリエには、渡仏後わずか数ヶ月で100点をゆうに超える作品が仕上がっていた。それは、洋画家・伊藤廉が「かなり大きなアトリエの中にはもう混雑するくらゐに沢山の絵があつた。私が訪ねたこの日は十二月七日である」(1935年『みづゑ』7月号)と、1927年(昭和2)暮れの様子を記している。伊藤廉は、モンパルナスの佐伯アトリエを頻繁に訪ねていた。
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 佐伯君でもう一つ憶ひ起すことは、佐伯君がよく「うんこ」の話をしたことである。美しい風景を見ると「うんこ」がしたくなるといつたり、ことに食事中に突然そんなことを言ふ癖があつた。(中略) ビリエ・モンバルパンに佐伯君たちが居たので、一日林と二人で訪ねていつたことがあつたが、その夕食の時に大きな田舎のパンを胸に抱き込んで切りながらこんな大きさの「うんこ」が出たらなど云ひ出した。そのとき「うんこ」の話をしたがるのは狂人になる前振れ(ママ)だと私が言ふのを引きとつて「絵かきなんかははじめから狂人だ」と佐伯君は言つた。この日はことの外「うんこ」の話が多かつたやうに記憶してゐる。(伊藤廉「佐伯君の死とその前後」より)
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 この文章を読むかぎり、1928年(昭和3)2月初旬(伊藤は3月初めと誤記憶)、サエキくんClick!いや「佐伯君」の言動は、かなり度外れた非常識で“変”はあるけれど、自身を客観視できユーモアを交えられる余裕とともに、比較的“正常”な精神状態にあったのがわかる。伊藤廉や林重義が、佐伯の仕事ぶりを目の当たりにするのは、この直後、再びモランを訪ねたときのことだった。
 ふたりがモランの路上で佐伯を発見したときに、彼が描いていた作品は現存している。鉛管から直接キャンバスへ絵具をなすりつけ、家の煙突から立ちのぼる煙を表現した『モラン風景』だ。林重義と伊藤廉は、佐伯の背後にまわって仕上がりつつある『モラン風景』の様子を、じっくり観察していた。同じく、1935年(昭和10)の『みづゑ』7月号から引用してみよう。
 
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 (前略)絵具をつけるのに掌でぬ(ママ)すりつけたり、穂先がかたまつた筆でたゝきつけたり造作もなく直線を引きはなす大変な速度を見てゐておどろいた。絵具でよごれた手は上着へでもズボンへでもなすりつけるし、パレツトへ絵具をおし出したら、鉛管の蓋をしないで箱へほり(ママ)込むのだし、クウトーを使つた場合にぬぐはないから、イーゼルも箱も汚れる。佐伯君の立つてゐる地面も絵具がとんでゐる有様で、この村の旅館の、オテル・グラン・モーランといふのだがそこの主人が気狂沙汰だと云つたやうに、それは度はずれたものだつた。佐伯君はかうして日に数枚を描き上げてゐたのである。(同前)
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 佐伯は仕事が終ると、描いた作品を「集めてかへつた」ほどの枚数を、たった1日で仕上げていた。この驚異的な制作スピードClick!は、気に入った風景が見つかったときの『下落合風景』Click!についてもいえる。つまり、佐伯が書き残した「制作メモ」Click!のタイトルは、1タイトル1作品とは限らないのだ。それは、いつかも記事に書いたように、「八島さんの前通り」Click!に相当する絵が、少なくとも4~5枚は現存しており、「制作メモ」に記されたキャンバスの号数と、必ずしもすべてが一致してないことを見れば明らかだ。また、雪景色の連作「諏訪谷」Click!も2点現存している。
 さらに、気に入った風景は、日を変えて何度か描いた形跡もある。曾宮一念アトリエ前の「セメントの坪(ヘイ)」Click!に関していえば、「制作メモ」では15号となっており、相応のモノクロ画像も残されているが、曾宮自身は40号Click!の作品で個人蔵として現存していると証言している。画家が画布サイズを15号と40号とで取り違えるはずはないので、これも同じ風景をキャンバスサイズを変えて、別の時節に同一の描画ポイントから制作しているのだろう。
※「セメントの坪(ヘイ)」には、制作メモに残る15号のほかに曾宮一念が証言する40号サイズと、1926年(大正15)8月以前に10号前後の作品Click!が描かれた可能性が高い。
 
 二科の林重義と伊藤廉は、創作意欲が湧かなかったり表現のスランプに陥ったりすると、林にとっては後輩で伊藤にとっては同年輩である、佐伯の仕事ぶりを見学してたようなフシが見える。モンパルナス162番地のアトリエやモランを訪ねたときも、作品がうまく描けずに悩んでいた時期らしい。佐伯の仕事を観察することで、彼から創作エネルギーをもらっていたのだろうか。
 伊藤はのちに、山本發次郎Click!が所有する作品を集めた1937年(昭和12)3月の「遺作展」で、佐伯の早逝についてアランの視点を借り、「もつとも純粋に高められた精神の状態に、佐伯君の肉体がついてゆけなかつたのだ」と総括するように書き残している。

■写真上:左は、下落合のアトリエで撮影された佐伯一家と杉邨てい(左端)。右は、この写真の撮影ポイントと思われる位置で、家族の背後には玄関右手(北側)にあったアトリエつづきのドアがある。また、画面左手には東向きの窓があり、4人はアトリエの採光窓に向いている思われる。
■写真中上:左は、『下落合風景』で1926年(大正15)9月26日に描かれたと思われる「上落合の橋の附近」(可能性のある2作のうちの1点)。右は、同じ方角から見た現在の寺斉橋。佐伯の描画ポイントからは、家々が視界を遮って寺斉橋を見ることができない。
■写真中下:左は、1928年(昭和3)2月制作の『モラン風景』。右は、朝日晃『佐伯祐三のパリ』(大日本絵画)に掲載された1992年現在の同所で、64年間ほとんど変わっていないのに驚く。
■写真下:左は、1925年(大正14)の東京美術学校卒制である伊藤廉『自画像』。右は、制作年代不詳だが滞仏作品ではないかと思われる林重義『バレリーナ』。
 
★lot49sndさんより、伊藤廉の自宅兼アトリエについて貴重な情報をいただきました。もともと、佐分眞アトリエだった西洋館へ、のちに伊藤廉が引っ越してきているようです。詳細はコメントをご参照ください。1927年(昭和2)に発行された「瀧野川事情明細図」の市外瀧野川大字西ヶ原字第六天1081番地の佐分邸(左)と、現在の同邸の写真(右)を掲載しました。(写真はGoogleより)