江戸時代、大江戸Click!市中に住んでいた人々は、武家や町人の別なく府外へ勝手に出ることをきびしく制限されていたから、なかなか旅行をすることができなかった。物見遊山の旅行をしたいと申請しても、まず許可が下りることはなかったが、これが神仏に参詣したいという理由で町名主に届け出ると、裏店(うらだな)住まいの町人でも案外すんなり旅行が許可されていくようになる。どのような規則が作られても、そこには例外が必ず存在するように、“お詣り”という理由さえ立ちさえすれば、時代の安定化とともにある程度自由に旅行ができるようになっていった。
 江戸の街には、無数の「連」や「講」が形成されている。これらのグループは、いわば同好会やサークルといった性質のものから、生活協同組合や宗派親睦会といった性格のものまで多彩だけれど、連中(れんじゅ)や講中(こうじゅ)がそろってどこかへ出かける・・・というシチュエーションが、江戸後期になるにしたがって激増してくる。芝居好きの方なら、すぐに魁連(さきがけれん)などのイキのいい連中を思い浮かべるだろう。いろいろな趣味や娯楽に関連した連や講が誕生し、その流れから旅行サークルも例外ではなかった。江戸末期に流行った、“お蔭詣り”(伊勢参り)がもっとも有名だが、大山講や江ノ島講、富士講といった近場の旅行も数多く企画された。
 寛政年間に爆発的なブームをよんだのが大山講(大山詣り)、文化文政年間からは富士講(富士詣り)、そして天保年間あたりから流行った伊勢講(お蔭詣り)へとつづいていく。時代とともに、少しずつ江戸から遠くなっていくのが面白い。多くの人々が動けば、そこに多大な消費や物流が発生するので市況が活性化するのを、当時の為政者はもちろん知っていた。町人たちの護身用である刀(道中指し)のニーズ急増で、廃業寸前の刀鍛冶Click!が息を吹きかえすのも寛政期あたりからだ。江戸初期の新刀Click!ブーム以来絶えていた、いわゆる新々刀時代Click!が到来することになる。
 彼ら旅行者を全国的にサポートするために、さまざまな街道・宿場ごとのガイドブックやサービスも生まれた。お奨めの「三つ星旅館」「名物旅館」や「穴場安宿」の案内、山賊などが出没する危険地帯の紹介、ガイドブック発行元と旅籠(はたご)とがタイアップした宿泊割引クーポン券の発行、数々の食事・名物サービス券の発行、通行手形の取得代行サービス、旅先からの便り飛脚サービス、駕籠・馬や舟の乗り物ガイダンス、宿賃の小切手代行サービス・・・etc.、いまの旅行代理店サービスとあまり変わらないシステムが、江戸期にはすでに完備されていた。
 
 相模(神奈川県)の伊勢原の北、大山(阿夫利山/標高1,252m)の山頂に祀られた阿夫利社へ詣でるために、「大山街道」と呼ばれる道筋さえ整備された。わたしも、何度か「大山詣り」をしたけれど、山頂までつづく階段を登りつづけるのはかなりキツイ。ふつうの山道ならそれほど疲れないと思うのだが、大山の階段状登山路はかえって脚を痛める危険性が高く、より標高の高い丹沢の山々を歩いたほうがラクなように感じたものだ。明治以降、大山講や江ノ島講は廃れてしまうけれど、富士講と伊勢講は戦後まで各町内に脈々と活きつづけてきた。
 落合地域にも、江戸時代の文化年間から連綿とつづく4つの富士講が記録されている。1960年代まで活動していた下落合講社、中井講社、上落合講社、そして西落合講社の4講社だ。もともとは、椎名町に住んでいた三平忠兵衛という人物がはじめた、「月三落合惣元講」に由来している。下落合の薬王院に眠る三平忠兵衛と、「月三落合惣元講」の詳細については、新宿区歴史博物館が1994年(平成6)に発行した『新宿区の民俗(4)―落合地区篇―』に収録されているので、そちらを参照していただきたいが、大江戸の富士講の中でもかなり早期にできた講社なのが興味深い。そして、「月三講社」のテリトリーも広く、先の落合地域はもちろん中野の上高田・新井・江古田・鷺宮、豊島の長崎・椎名町・池袋・高松、また市中では神田・湊・鉄砲洲、そして埼玉県内にもいくつかの講社があり、江戸期から戦後まで富士登山を繰り返していた。
 また、富士山に登ることができない女性やお年寄りのために、江戸市内へミニ富士を造成するブームも講を中心に起きている。これらの「富士塚」は、たいがい前方後円墳や円墳など均整がとれた墳丘上に富士山の溶岩を運んできて築かれ、頂上へ登るまでの小路には富士登山道と同様に○合目などの碑が建立された。落合地域とその周辺では、上落合の大塚古墳Click!(浅間塚古墳/円墳)上に築かれた「浅間塚(上落合)富士」、早稲田の富塚古墳Click!(前方後円墳)上に築かれた「高田富士」、新宿の円墳(?)上に築かれた「東大久保富士」と「花園(新宿)富士」、そして当初の姿をよく残しもっとも美しいといわれる、高松の古墳(おそらく円墳)上に築かれた「長崎富士」Click!などがある。このうち、上落合の「浅間塚富士」と高松の「長崎富士」は、「月三講社」が築造したものだろう。このあたり、どこかで“百八塚”Click!の伝承ともつながってくるテーマでもある。
 
 各地の富士講は、基本的に「地付き」つまり代々が地元の出身者しか入ることができなかったので、明治以降に東京地方へ移転してきた人はもちろん、同じ東京府内でも転居でやってきた人々でさえ原則的に参加できないという、非常に閉鎖的なものだった。でも、講社の中には構成メンバー全員の賛同があれば新しいメンバーを受け入れるという、フレキシブルな上落合講社のような例もあった。また、「月三講社」のような大規模な講では、市内の神田で同講に参加していたとすれば、落合地区に引っ越してきた場合は、おそらく入社が認められたのではないかと思う。ただし、神田のすぐ隣り町の出身であるわたしが、いくら「入りたいよう!」と申請しても、きっと落合地域のどの講社からもハネつけられて入社できなかっただろう。
 富士講に限らず、大江戸の町内に展開した連や講は、大なり小なり「地付き」が前提の閉鎖的なもので、異なる地域の連中や講中と張り合うのもまた、楽しみのひとつにしていたフシが見える。日本橋でも、戦後のころまでこの「連中」「講中」、そして「仲間」意識が残っていたようだけれど、いまは連や講といったものは消えて、すっかり街(町内)単位でくくる「仲間」意識に変わってきている。「地付き」の意識も薄れてきており、戦前は明治以前/以降が大きな境目だったようだが、いまは戦前/戦後の節目が「地付き」を規定する尺度のようになっている。
 余談だけれど、江戸東京に広く展開した「連中」や「講中」、ときには職業別「仲間」に視座をすえると、「日本史」とはまったく異なる江戸東京史が浮かび上がってくる。その結束力の強靭さと排他性の強さは、日本各地で見られる町村とまったく変わらない有り様だが、ある意味では明治以降から戦後まで、「公式」かつ演繹的にまとめられた権力者に都合のよい史観ではなく、「地付き」で暮らす人々の側から見た地域の真実を伝える史的側面を、多分に含んでいて興味は尽きない。
 
 
 落合地域の富士講は、1969年(昭和44)に西落合講社が最後の富士登山を行なって以来、翌年から活動を休止してしまう。理由は、富士登山のエキスパートであり山岳家の「先達(せんだつ)」が、体力的に限界を迎えていなくなってしまったからで、ガイドなしで富士山に登るのは危険だ・・・との認識から、講は自然に解消してしまったのだろう。「月三講社」の先達は、圧倒的に下落合の出身者が多く、1805年(文化2)の初代から1980年(昭和55)の14代までの175年間、下落合の宇田川家と高田家、そして貫井家が半数にあたる7代の先達を受け持っていた。そのうち5代を、旧・下落合(中落合・中井2丁目含む)の旧家である宇田川家が担当している。

■写真上:山手通りの造成工事で破壊された、大塚古墳(円墳)の上部から浅間社とともに移築された、月見岡八幡社に隣接して残る「浅間塚(落合富士)」山頂部の残滓。
■写真中上:左は、大江戸の富士講を網羅した「百八講印曼陀羅」にみる「椎名町・三平忠兵衛」の名前。右は、薬王院にある講祖・三平忠兵衛(のちに改名して三平信忠)の墓。
■写真中下:左は、国の重要文化財に指定されている豊島区高松の「長崎富士」(1862年築)。右は、旧・尾張徳川家下屋敷(戸山ヶ原)の南に築かれた「東大久保富士」(1842年築)。
■写真下:上左は、早稲田にある「高田富士」(1779年築)の残滓。本来は、富塚古墳の後円部墳丘に築かれていた。上右は、もっとも新しい新宿の「花園(新宿)富士」(1928年築)。下左は、1947年(昭和22)の空中写真にみる「高田富士」で、のちに早大9号館建設とともに崩された。下右は、昭和初期に撮影された大塚古墳がベースの「浅間塚(上落合)富士」。