1934年(昭和9)の暮れ、中條ユリClick!(中條百合子=宮本百合子)が獄中の宮本顕治へ宛てた手紙が残っている。上落合2丁目740番地へ転居してから、間もないころに書かれたものだ。目の前に落合第二小学校(現・落合第五小学校)が見える、坂道を上ったところに建っていた賃料30円/月の角家。1951年(昭和26)に出版された、『十二年の手紙』(筑摩書房)から引用してみよう。
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 中井駅という下落合の駅の次でおりて、小学校のつき当りの坂をのぼったすぐの角家です。小さい門があって、わり合落着いた苔など生えた敷石のところを一寸歩いて、格子がある。そこをあけると、玄関が二畳でそこにはまだ一部分がこわれたので、組立てられずに白木の大本棚が置いてあり、右手の唐紙をあけると、そこは四畳半で、箪笥と衣桁とがおいてあり、アイロンが小さい地袋の上に光っている。そこの左手の襖をあけると、八畳の部屋で、そこには床の間もあるの。(同書「1934年<昭和9年>」より)
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 「なかなか一通りなものでしょう?」と書く百合子だが、この家は“騒音”がうるさかったのだ。周辺はいまだ水道が引けてはおらず、「朝まだ眠いのに家でガッチャンガッチャン、裏の長屋でガッチャンガッチャン」と井戸くみの音に悩まされることになる。落合地域は荒玉水道Click!が引かれたばかりで、まだまだ井戸の需要が多く、また井戸水のほうが清廉で美味しかったのだ。それに、当時の水道は基本料金が93銭だったのに比べ、井戸水はいくら使ってもタダだった。新居が気持ちいい百合子は、2階に上がると窓外の風景とともに、久しぶりにウキウキした気分になったようだ。
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 台所へ出てから、二階への梯子があり(これは玄関から障子をあけても行けるのです)、二階も縁側があり、入ってすぐが六畳、奥が四畳半。(中略)二階の景色はよくてテーブルの右手の小窓をあけると、小学校の庭と建物越しに下落合の高台が見え、六畳の小窓からもそれにつゞいての景色が一望されます。(同上)
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 窓からは、尾崎翠Click!の家と同様にアビラ村の美しい丘陵が見わたせた。ところが、松本竣介Click!も描いた落合第二小学校Click!(現・落合第五小学校)の騒音が、想像以上にうるさかったのだ。キンコンカンコンのチャイムにはじまり、チーチーパッパの音楽や拡声器の声がやかましく、百合子はだんだんイライラするようになる。おそらく、会津八一Click!の霞坂Click!から文化村Click!への引っ越しも、落合第一小学校の騒音Click!が気になったのだろうと想像しているが、彼女も同じ悩みを抱えることになった。仕事が家の外であればわからないが、昼間、自宅にジッとこもって仕事をする物書きにとっては、気が散る騒音がことのほか神経を苛立たせたのだろう。
 もちろん、前年に作家仲間の小林多喜二Click!が築地署で特高に虐殺され、顕治の投獄も含めて、当局の弾圧がこれまでにないほど苛烈をきわめていたことも、彼女の神経をよけいに参らせ、ことさらナーバスにさせる大きな下地となっていた。下落合の丘から吹きおろす風の音さえ気になり、神経をたかぶらせて仕事に集中できない上落合の日々がつづく。
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 ひどいひどい風。空にはキラキラ白く光る雲の片が漂って、風はガラス戸を鳴らしトタンを鳴らし、ましてや椿、青木などの闊葉を眩ゆく撹乱するので、まったく動乱的荒っぽさです。春の空気の擾乱です。二階には落着いていられない。机の前は西向の窓でいたって風当りがつよく、下落合の丘陵から吹きつける風で、いつかは障子がふっ飛んで手摺を越し下の往来へ落ちた。(同書「1935年<昭和10>」より)
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 小学校が流す拡声器の音に、百合子はとうとうキレたらしい。1935年(昭和10)5月になると、彼女はヒステリーを起こすようになり、さっそく転居を考えはじめる。「小学校のラジオで私はこの好季節をヒステリーになったから、目下しきりに家さがし中です」と、彼女は5月9日付けの顕治宛てハガキに書いている。おそらくヒステリーを収める気晴らしのつもりで、百合子は近所に住む窪川稲子Click!(佐多稲子)が誘いにくると、よく連れだって近所へ散歩Click!に出ていた。落合の作家たちの活動を見ていると、この窪川稲子(佐多稲子)の存在がきわめて大きいことに改めて気づく。彼女は、仲間たちの状況を常に気づかい、他の作家たちには見られない気配りや優しさを見せている。
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 (前略)この間いねちゃんがきて、もう日没近くであったが中井の先の下落合の方の野っぱらを散歩して、いゝ気持ちでした。その丘の雑木林の裾をめぐる長い道は東長崎の方へまでつゞいているのだそうです。夕霞がこめている。その方をしばらく眺めました。その野原の端を道路に沿って小川が流れていた。(同書「1934年<昭和9年>」より)
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 書かれている「中井の先の下落合の方の野っぱら」とは、鈴木良三Click!や手塚緑敏Click!がよく画道具を下げながら写生に出かけ、夫の帰りを待つ高群逸枝Click!や林芙美子Click!が見下ろしていた、もちろんバッケが原Click!のことだろう。雑木林の裾をめぐる「長い道」は、鎌倉時代から拓かれている中ノ道Click!(のちに東京府が名づけた新井薬師道)と思われ、「小川」とは一部ですでに整流化工事が進んでいた、妙正寺川の小流れを指している。
 多くの文学書籍や年譜では、宮本百合子が上落合2丁目740番地に住んでいたのは、1934年(昭和9)11月から1937年(昭和12)1月まで・・・ということになっている。でも、顕治との書簡のやり取りをていねいに読む限り、この記録は誤りだろう。彼女が確実に上落合で暮らしたのは、1934年(昭和9)から翌1935年(昭和10)の5月までで、同月の中旬に淀橋署に再逮捕されている。それから、1936年(昭和11)3月下旬の保釈まで、父親の死去にともなう1月30日から3日間を除き、ずっと警察と拘置所の中だ。父親の葬儀に参列した3日間は、駒込林町の中條家に宿泊しただろう。3月下旬に保釈され慶應病院に入院、6月に執行猶予付きの判決、翌7月にようやく釈放されているけれど、この間に暮らしていたのはやはり駒込林町のほうだ。
 すなわち、このときにはすでに上落合の住まいを整理して、とうに出てしまっていたと思われる。実家から、次の借家を探しはじめるのは、1936年(昭和11)の夏以降、「私の家はそろそろさがして貰うことにしました。どこに住んでよいかよく分らないけれど早稲田南町辺はどうかしらなど考えて居ります。戸塚へも近いし。市外はおやめです。夜などの出入りに淋しくて困るから」と、市ヶ谷刑務所の顕治に書き送っている。つまり、彼女の上落合生活はわずか半年ほどだったことになる。
 
 でも、実際に決めた家は早稲田ではなく、上屋敷駅Click!もほど近い彼女が以前住んでいた家の近くだった。「この正月三日に、目白のもとの家(上り屋敷の家です、覚えていらっしゃるでしょう?)のそばで、小さい、だがしっかりした家を見つけ、そこを借り」・・・と、1937年(昭和12)正月に百合子は実家から、目白町3丁目3570番地にあった家賃34円/月の新居へと引っ越していった。

■写真上:上落合2丁目740番地の坂道をのぼった角家、中條百合子の旧居跡。宮本顕治と結婚し宮本百合子になるのは、引っ越してひと月ほどたった暮れの12月から。結婚して「配偶者」になれば、刑務所への面会や差し入れが比較的容易になったからだと思われる。
■写真中上:左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる上落合2丁目740番地界隈。右は、1938年(昭和13)作成の「火保図」に描かれた同地番にみえる角家。
■写真中下:上左は、旧居跡を坂の下から。坂上の右手に見える茶色いマンションが、旧居のあった角家。上右は、旧居跡を別角度から。下左は、坂上から百合子も眺めた現・落合第五小学校(旧・落合第二小学校)。下右は、すぐ南に位置する上落合の古刹・最勝寺。
■写真下:左は、大正末か昭和初期の中條百合子。右は、上落合の次に住んだ武蔵野鉄道・上屋敷駅にもほど近い、目白町3丁目3570番地の百合子自身が描いた借家の間取り図。