子供のころ、親父の本棚に気になる本が置いてあった。コート紙を用いたツヤのあるカバーで黒い背表紙に、表紙はなんの変哲もないどこにでもありそうな崖の断面写真・・・という装丁だった。タイトルには「幻の~」という副題が付いていたので、よけいにそそられたのだろう。「幻の湖」とか「幻の遺跡」とか、いつの時代でも子どもはその手のタイトルに弱い。
 「面白いぜ」と親父も言っていたその本のタイトルは、相沢忠洋『「岩宿」の発見~幻の旧石器を求めて~』(講談社/1969年)だった。おぼろげな記憶では、その本を2日ぐらいで読んでしまったと思う。もちろん、大人向けの本なのでわからない箇所も少なくなかったけれど、それほど内容が面白かったのだ。戦後すぐのころ、自転車で納豆の行商をしながら、茶褐色の関東ローム層中から、それまでの「日本史」では“ありえない”はずの石器を次々と発見していく過程は、シャーロック・ホームズや天才バカボンよりも、よほど刺激的で面白かったのだ。
 1946年(昭和21)の相沢忠洋による「岩宿遺跡」の発見で、従来の「日本史」がコペルニクス的な転回、180度ひっくり返ってしまうことになった。明治政府が「日本史」教科書にデッチ上げ、1945年(昭和20)までつづいた「天孫降臨」の「歴史」体系が、たった数個の石器発見という事実の前に、もろくも崩れ去った瞬間だった。相沢の発見から、わずか数年ののちに下落合4丁目(現・中井2丁目)のアビラ村Click!(芸術村)西部、目白学園とその周辺の敷地で、同じく関東ローム層の中から旧石器時代の遺物が次々と発見されることになる。
 のちに、旧石器時代から平安時代へとつづくこの遺跡は「落合遺跡」と呼ばれるようになるが、当初は住所名を採用して「下落合四丁目遺跡」と名づけられていた。新宿区の教育委員会では岩宿遺跡の発見とからめて、落合遺跡から発掘された驚異的な(当時は)石器発見の事実を次のように記述している。新宿歴史博物館が第12次発掘調査の直前、1997年(平成9)に企画した「落合遺跡展」の図録『落合遺跡展』から引用してみよう。
 
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 (前略)以来様々な研究が考古学史上で展開されていくが、旧石器時代に限れば、当該時期に人類が日本列島に存在したかどうか、が主要な研究課題であった。その研究の流れのなかで次第に「日本に旧石器時代はない」とする考えが考古学界全体の常識として認識されることになる。この風潮は、当時日本歴史学全体を支配していた「皇国史観」が多分に影響していると考えられる。
 1946年(昭和21)相沢忠洋氏により群馬県岩宿の関東ローム層中から石器が発見され、その後1949年(昭和24)明治大学の杉原壮介氏、芹沢長介氏らが調査した結果、日本における旧石器時代の存在が確認された。この岩宿遺跡の発見以後、神奈川県野川、月見野遺跡群や埼玉県砂川遺跡の発掘を経て、旧石器時代は考古学研究の一分野としての地位を確立している。
 落合遺跡において、関東ローム層中から石器が出土することが確認されたのは、落合遺跡第1次調査の報告(1955)によると1950年頃、岩宿遺跡の発見からわずか数年後の事である。
                      (同書「日本考古学史における旧石器時代と落合遺跡」より)
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 世界にも類例のない、高度で芸術的なオリジナル土器を創造し、東日本を中心に1万年近くもつづいた縄文時代(新石器時代)さえ、「神国日本」には「うとましい」と思われていた時代が、つい60数年前まで存在していた。ましてや、さらに5万~10万年近くも時間がさかのぼる時代のことなど、いくら裏づけられる石器類が発見されようが、それまでの考古学界では「おかしいな?」と疑問に思う研究者はいても、「なかったこと」「見て見ぬふり」が繰り返されてきたのではないか。
 古代史を解明するうえでは超貴重だった、関東における膨大な大小古墳群を破壊Click!しつづけてきた史観と、まったく同一の視点がそこには存在している。東京の、しかも新宿区下落合の関東ローム層から発見された旧石器時代の石器類は、敗戦からわずか5年、当時の「日本史」の認識状況を踏まえるなら、まさに驚愕すべき事態だったのだ。しかも、落合遺跡のケーススタディは岩宿遺跡とは異なり、旧石器時代から平安時代にいたるまで、一貫して同一の地域(目白崖線の斜面や丘上)に人が住みつづけているClick!ことを立証した、前代未聞の遺跡発掘となった。

 わたしは下落合(中落合・中井2丁目含む)を散歩するとき、赤土(関東ローム層)がむき出しで露出している場所を見つけると、つい目を皿のようにして石器がないかどうか探してしまうクセがある。きっと、相沢忠洋の『「岩宿」の発見』が原体験となり、地中に埋まる「幻の」ものへのあこがれが身についてしまったのだろう。古い上落合の資料には、田畑を耕すと土器や埴輪が出てくるため、片づけるのも面倒なので鋤で砕いて、そのままにしておいた記述が見られる。つまり、田畑を歩けば縄文・弥生・古墳各時代からの遺物が、ゴロゴロしていた土地柄なのだ。
 もし、宅地化がもう少し遅れ、戦後までそのような状況が見られたとしたら、「落合遺跡」の発掘に相当するような考古学上の画期的な発見が相次いでいたかもしれないと思うと、「下落合摺鉢山古墳」Click!のテーマともからめ残念でならない。つい先年も、“たぬきの森”の埋蔵文化財調査では、縄文期の遺物が発見Click!されたばかりだ。下落合では、縄文や弥生の遺物は別にめずらしくないけれど、旧石器時代のナイフ形石器には、やはりいくつになってもあこがれを抱いてしまう。
 『「岩宿」の発見』を読んだ子供のころ、にわかに「考古学」熱にとり憑かれたわたしは、さっそく湘南平北面の貝塚遺跡を友だちと掘りに出かけ、近所の農家のおじさんから「そんなとこ、掘ったらダメだべえ」と叱られ、大磯の血洗川河口、吉田茂邸前の海岸Click!では雨の中、新世第四紀の地層(大磯層)から貝の化石を持ちきれないほど採集して帰り、身体が冷えきってその晩から高熱を出すなど、オバカな考古学者ごっこを繰り返してきた。
 
 そのせいか、目白崖線の碧玉勾玉Click!の次は旧石器時代のナイフ形石器をペンダントにしようとたくらんでいるわたしは、下落合で関東ローム層をほじくっているとき、「ねえ、あなた、なにをおしなの? まあ、わたくしの家の敷地ですのよ。そんなところ、掘ってはなりませんことよ」・・・という声が聞こえないかどうか、ついあたりをキョロキョロと見まわしてしまうのだ。

■写真上:岩宿遺跡の関東ローム層から発見された、美しい旧石器時代の槍先形尖頭器。
■写真中上:左は、親父の書棚にあった『「岩宿」の発見~幻の旧石器を求めて~』(講談社/1969年)。右は、行商をしながら岩宿遺跡を発見・研究しつづけた相沢忠洋。
■写真中下:発掘された「落合遺跡」の全貌で、各時代とも街と呼べるほど住宅が密集していた。この住居の連らなりは、妙正寺川の対岸段丘にもつづいていたと思われる。
■写真下:左は、1954年(昭和29)に行なわれた発掘調査の空中写真。中井(下落合)御霊社の北側敷地だが、×印のところから石器が発掘された。すでに1950年(昭和25)年には発見されていたが、改めて旧石器時代の遺跡が確認された。右は、発掘されたナイフ形石器。