下落合には、バッケClick!(崖地)から湧く泉の小流れを活用したプールが、昭和初期にいくつか造られている。これだけ湧水が多く、水が清廉だった落合地域には、水道水によるプールは必要なかったのだ。湧水プールのひとつは、葛ヶ谷Click!(西落合)の井上哲学堂Click!(和田山)やオリエンタル写真工業Click!もほど近いところにあった。おそらく、織田一磨Click!が描く風景画の、大きな池を形成していた湧水のひとつだろう。1946年(昭和21)に米軍が撮影した空中写真を仔細に観察すると、正方形に近いプールと思われる施設が、オリエンタル写真工業の第1工場近くに見える。
 湧水プールは、聖母坂沿いにもあった。もともとは、諏訪谷Click!の“洗い場”Click!だった池を宅地造成とともに南へ移し、それが戦前にはプールとなっていた。諏訪谷からの湧水を活用した、かなり冷(ひゃ)っこいプールだったようだ。聖母坂をはさんだ西側の「不動谷」Click!にも湧水流があり、第2の洗い場Click!を形成していたけれど、こちらはプールではなく釣り堀Click!となっている。
 さらにもうひとつ、湧水プールは広い敷地の大きな西洋館が建ち並ぶ個人邸の中にもあった。二二六事件の際、岡田啓介首相が脱出してひそんだ佐々木久二邸Click!だ。東隣りは1930年協会にも属し、アトリエも持っていたらしい外山卯三郎Click!の実家、外山秋作邸が建っていた。佐々木久二の妻は、尾崎行雄(咢堂)の長女・清香であり、次女の相馬雪香Click!ともども下落合で暮らしている。ようやく見つけた佐々木邸の外観が、上掲の写真だ。広い敷地にいくつもの棟が建っていた、とても豪華でどっしりと大きな大正期の西洋館群であり、制作意欲をかき立てられない佐伯祐三Click!が便意Click!ももよおさず、素通りした「下落合風景」Click!のひとつだったろう。
 
 下落合(中落合・中井2丁目含む)の西部、目白文化村Click!やアビラ村Click!(芸術村)の子供たちは、夏になるとよく葛ヶ谷プールに出かけていたのだが、ある日、落合小学校Click!(現・落合第一小学校)の先生からもっと近くにある佐々木邸のプールへ行くように奨められている。佐々木邸のプライベートプールが、近所の子供たちに開放されたのは、1928年(昭和3)前後のことだと思われる。しかも、佐々木邸プールは野外ではなく、当時としてはめずらしい屋内プールだったのだ。
 1992年(平成4)に発行された、名取義一『東京・目白文化村』(自費出版)から引用してみよう。
  ●
 小学校の四年生か、五年生かの夏だった。それまでは葛ヶ谷(西落合)、さきの哲学堂やオリエンタル写真会社の近くにあるプールに行って泳いでいたが、先生が、「これからは、近くの佐々木さんのプールに行くように・・・・・・」と勧めた。/それで、最初は先生に引率されて、この佐々木邸を訪ねたように思う。皆は余りに大きい洋館なのでビックリしてしまった。/この緑いっぱいの庭園の中に、屋内プールがあった。シャワーもあって「これは何んだ」「ヤア、お湯が出るぞ」「身体を洗うのか」と賑やかなことであった。/ともかく、野外のプールで、すぐ濁るのとは違い、これはタイル張りで底まで透徹っていて、気持ちがよかった。 (同書「私鉄王の佐々木久二邸」より)
  ●
 
 
 泉を利用した野外の湧水プールは、底が土のままなので泳いでいるうちにすぐに濁ってしまうのだが、もともと自家用だった佐々木邸の湧水プールは、全面タイル張りの本格的なものだったようだ。のちに、佐々木邸のプールは近所の人たちから「落合プール」と呼ばれるようになり、聖母坂プールとともに町営プールのような存在になっていく。引きつづき、同書から引用してみよう。
  ●
 そして、主人公はどういう人か、と。/久保田先生だったか、あの佐々木さんは、福井県の私鉄王とか、大金持ちで代議士にもなって・・・・・・」と話してくれた。/同氏とは一度も顔を合わせたことがないが、“憲政の神様”といわれた尾崎咢堂翁(明治十二年、開成中学の前身・共立学校卒)の女婿だった。清香夫人=翁の長女=は、町内に幼稚園を創設して子供らを愛育していた。/かの二・二六事件の際、首相官邸で危ふく命拾いをした岡田啓介首相(明治十八年、共立卒)は、同じ越前の関係で密かに逃れて、同邸に潜伏していた。 (同上)
  ●
 
 聖母坂プールもそうだが、「落合プール」も水がかなり冷たかったようで、長時間は泳いでいられなかったかもしれない。清廉な湧水が次々と注ぎこんだと思われ、水質はかなりよかったのではないだろうか。下落合では、聖母坂プールの記憶について語られる方よりも、佐々木邸の「落合プール」の思い出を語られる方のほうが多いような気がする。

■写真上:昭和初期に撮影されたとみられる、下落合1147番地の佐々木久二邸。
■写真中上:左は、哲学堂(和田山)にもほど近いオリエンタル写真工業の第1工場の南に見える、野外プールと思われる正方形の施設。もともと、灌漑用の大きな池があったあたりだ。右は、聖母坂にあったプール。諏訪谷から湧いた水流を利用し、“洗い場”を南に移動したあとに造られた。
■写真中下:上左は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる聖母坂プール。上右は、同「火保図」に描かれた落合プールで、すでに屋内プールではなく屋外プールになっている。下左は、二二六事件が起きた1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる佐々木久二邸。下右は、1947年(昭和22)に撮られた戦後の落合プールで、佐々木邸は空襲で全焼している。
■写真下:左は、佐々木邸の建っていたあたり。右は、段丘下のプールがあったあたりの現状。