少し前、小熊秀雄が描く『目白駅附近』Click!で、椿坂の坂上突き当たりに見えている4~5階建てビルを、「川村学園の校舎の一部だろうか」と書いたが、どうやら間違っていた。現在、商業用の雑居ビルが建っていて、NTT都市開発(株)が再開発Click!を予定している位置に建っていたビルは「目白市場」だ。市場といっても、1935年(昭和10)前後になると、食料品や衣類、生活雑貨を総合的に扱う百貨店(デパート)のような存在で、大正期までの付近で採れた野菜の集荷地としての「市場」とは異なり、今日のスーパーマーケットに近い存在だった。それに気がついたのは、小川薫様からご提供いただいた「上原としアルバム」Click!に残る、目白駅界隈の風景写真の撮影ポイント特定をしていて、1938年(昭和13)に制作された「火保図」を参照したからだ。
 さて、上原とし様のアルバムには、ダット乗合自動車Click!(のち東京環状乗合自動車)の終点である目白駅前の、目白橋上から目白市場と目白幼稚園の間あたりの方角を向いて撮影したと思われる、1枚の写真が残されている。(冒頭写真/上部をカット) 撮影ポイントは、目白橋西詰め北側、いま風にいえば「F.L.ライトの小路」Click!の入口あたりから北東を向き、カメラをタテにして撮影されたようだ。だから、写真もタテ画面で画角がかなり狭くなっている。人々の周囲には自転車が置かれ、その背後には橋下の山手線の線路面から伸びている、電柱の横木が目前に見えている。右手の自転車の陰には、往年の目白橋の欄干がほんの少しだがのぞいている。
 同じく右手の欄干の遠景には、背の高い建築とともに横長の構造物(ビル?)がうっすらと見えているけれど、これが目白市場の建物の一部である可能性が高い。画面の左手には、山手線の切り立った東側の土手が見え、その上には2階建てで洋風のちょっとシャレた建物が写っており、目白幼稚園はそのさらに左手にあると思われる。この洋風の建築は、道路に面してオーニング(店舗用テント)が見えているが、おそらく大正期からつづく「カフェ市春」と思われる。写真とほぼ同時期に作成された「火保図」を見ると、周囲の風情や建物の配置が一致しているのがわかる。

 次の1枚は、歩道のある広い目白通りが写されている。街路樹の葉が落ちた冬の撮影とみえ、ふたりのバスガールたちも厚手のコートを着ていて、右手の歩道を歩く学習院初等科らしい下校途中の子供たちの制服も冬の装いだ。クルマの向こう側に見えている街並みは、バスの終点である目白駅近くで撮影された公算がきわめて高い。看板類はピントが外れていて読み取りにくいが、左手の商店看板には「STATICA○○」の英文字が見える。左2軒の商店の次は、路地と立て看板のある空地があるようだ。その向こう側から、当時としてはモダンでしゃれたオフィスビルないしは商店建築がつづいている。電柱と街路樹との間に見えているビルは、まるで銀行のような風情をしており、その向こう側にも路地のようなスペースがあるのが見える。銀行のような建築のさらに向う側には、昭和初期にみられる商店建築がずっとつづいている。
 これらの風景に見合う目白通りは、地図類や空中写真で探すと、当時の呼称で目白町3丁目(旧・高田町金久保沢)の目白通り沿いに見つけることができた。ちょうど、銀行のような建物のあるあたりが、現在のみずほ銀行ビジネスセンター(旧・富士銀行目白支店)がある場所だ。大正期から昭和初期には、広大な小澤材木店があったあたりで、その敷地がのちに分割されて店舗がいくつか建てられている。また、駅前再開発と目白通りの再整備にともない、1930~1935年(昭和5~10)ごろには大きく姿を変えた街角だったと思われる。この銀行らしいビルは、通り沿いの再開発以前までもう少し先に建っていて、場所を駅寄りに移した「昭和銀行目白支店」なのかもしれない。すなわち、ふたりのバスガールが立っている位置は、現在の「目白駅」バス停のすぐ近くであり、停留所は画面の左手枠外の歩道沿いにあると思われる。



 さて、次の写真2枚は、目白通りを練り歩く祭りの神輿だ。ただし、下落合の氷川明神社の神輿ではなく、長崎氷川明神社(現・長崎神社)の神輿だ。(主柱はどちらも同じ出雲の女神クシナダヒメ)  つまり、ここにとらえられている目白通りの祭りの情景は、今日の山手通り(当時はいまだ工事中で未開通)の東側=目白駅寄りではなく、目白文化村Click!やダット乗合自動車の車庫があった西側、長崎町(のち椎名町→現・南長崎)と下落合(現・中落合)の落合府営住宅Click!エリアとの間にはさまれた目白通りClick!だ。大勢の氏子たちにかつがれたクシナダヒメの神輿は、目白通りの真んまん中を威勢よく突き進んでいる。
 どのあたりの商店街なのか、ピントが手前にあり看板が読み取れないのが残念だ。やはり、1935年(昭和10)前後の情景と思われるが、ワッショイワッショイとかつぎ手の声が聞こえてきそうな、非常にリアルで祭りに沸き立つ目白通りの貴重なドキュメントだ。祭列が目白通りを、東西どちらの方角に向いて進んでいるのかは不明だが、約10年ののち、目白通りの商店街の南側は「建物疎開」で次々と破壊Click!されることになるなど、想像だにしえなかった時代のスナップ。長崎氷川明神と下落合氷川明神の祭りは、当時から時期的に重なっていたと思われ、クシナダヒメ様は神輿乗りのかけもちで忙しかっただろう。途中で長崎の神輿と下落合の神輿が出会ってしまったら、彼女は「身ひとつのあたしに、いったいど~してほしいわけ?」と、少しおかんむりだったかもしれない。^^:
★その後、この神輿は長崎神社の例大祭と同時に繰り出す五郎久保稲荷の五若神輿Click!であることが判明した。同神輿は1934年(昭和9)に製作されるので、撮影は同年以降ということになる。
 
 さて、「上原としアルバム」から、今回は目白通りの風景をご紹介したが、旧・長崎町(旧・椎名町→現・南長崎)の界隈や通称バス通り(南長崎通り)、目白文化村あたり、千川分水(籾山牧場Click!附近)、豊島園・・・などなど、アルバムには1935年(昭和10)前後に撮影された貴重な近隣の風景が横溢している。撮影場所を想定しながら、少しずつ掲載していきたい。

■写真上:上原とし様のアルバムより、1935年(昭和10)前後の目白橋。
■写真中上:1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる、目白橋付近の様子と撮影ポイント。
■写真中下:上は、やはり1935年(昭和10)前後に撮られた目白通りの街並み。中は1936年(昭和11)の陸軍による空中写真、下は1947年(昭和22)の米軍の空中写真にみる撮影ポイント。
■写真下:1935年(昭和10)前後の目白通りをゆく、長崎氷川明神(長崎神社)の神輿。
 
■おまけ:上掲写真の現状で、目白橋から(左)と目白通りからの眺め(右)。現在では、目白橋や目白通りがさらに拡幅されているので、昔の撮影位置や撮影画角では写せない。