目白崖線の下を東西に通る道を、落合地域では昔からさまざまな名称で呼んでいる。鎌倉時代に拓かれた、鎌倉街道のひとつだといわれているが、和田氏が館をかまえていた和田山Click!(現・哲学堂公園)や、その周囲の旧字である「和田」という地名を考慮するなら、おそらく700~800年ほど前から存在している古道にまちがいないだろう。いや、周囲の遺跡や古墳の密集度から勘案すれば、ひょっとすると1300~1400年ほど昔にまでさかのぼれるのかもしれない。
 わたしは掲載する記事で、この道のことを複数の名前で表現してきている。それは、地元の各エリアで昔から呼ばれてきた名称を、役所の「公式」道路名よりも優先し尊重したいからだ。東京府が戦前、道路整理の都合で名づけたとみられる「新井薬師道」という名称は、本来の名称位置である中野区の上高田地域から西を除いては採用してこなかった。ちょうど、戦前の西武新宿線のことを地元では誰も「西武鉄道」などとは呼ばず、西武電鉄あるいは西武電車と呼んできており、その呼称を優先して書いてきたのと同じ視点だ。もっとも、西武鉄道は媒体広告や案内パンフレットなどで、みずから同線のことを「西武電車」Click!と呼んでいるのだが・・・。
 あくまでも地元の記憶や伝承、証言を尊重したいわたしとしては、これからも恣意的に演繹され整理され、ときには意識的に抹殺されてしまったあとの「公式」名称や「公式」記録ではなく、従前の記述をつづけていきたいのだが、一度ここで「新井薬師道」(東京府)と呼ばれる道の本来の地元名を、地域別に整理しておきたいと思う。地元で呼ばれる道の旧名は、江戸期に建立された道標(庚申塚など)にも彫られており、おそらく江戸時代からの呼称が踏襲されているものとみられる。
 道筋をわかりやすくするために、1918年(大正7)発行の「早稲田・新井1/10,000地形図」をもとに、地元の昔からの道名を記載してみよう。赤い筋の道が、東京府が戦前に「新井薬師道」と名づけてしまった目白崖線下の鎌倉街道だ。ちなみに、地図にはいまだ西武電鉄は敷かれていない。

 
 ほとんど同じ地形の国分寺崖線地域(武蔵小金井・国分寺界隈)では、崖地のすぐ下を通るこのような道筋を昔から「ハケの道」Click!と呼んできている。そのひそみにならえば、目白崖線の場合はさしづめ「バッケの道」となるのだろうが、「バッケ」Click!という名称は神田川や妙正寺川の沿岸に拡がる草原や、崖下一帯の地域名につけられはしたものの、鎌倉街道の道名になったことは一度もなかったらしく、この道から北側の丘上へと通う坂道がどうやら「バッケ坂」と呼ばれた痕跡がうかがえる。それが経年とともに転訛、あるいは異なる意味が付与されて、「オバケ坂」や「幽霊坂」となって残っているらしいことは、すでに何度か記事にも書いたとおりだ。
 地図の中で、雑司ヶ谷道と中ノ(中野)道(別名「下ノ道」)の境界が曖昧だけれど、地元での呼称も楕円が重なるエリアは一定していないようだ。おそらく重なったところは、道を歩く方角や目的地によって表現を変えていたか、あるいは両方の名称が共存していたエリアなのかもしれない。雑司ヶ谷道は、山手線をくぐって学習院の南を通り、やがて目白・雑司ヶ谷へと抜ける道。旧・下落合西部(中落合/中井2丁目)の中ノ道(中野道)=下ノ道は、妙正寺川をわたって新井薬師、やがては中野へと通じる道筋だった。ただし、妙正寺川の渡河位置は時代によって変化しているようで、地図に記載した赤線の道筋は1918年(大正7)現在のイメージにすぎない。
 1970年代まで、東の雑司ヶ谷道あるいは西の中ノ道を歩くと、昔ながらの大谷石の縁石や築垣が随所に見られ、大正末から昭和初期に拡がっていた街の面影が顕著に感じられたものだ。それらの多くは、住宅敷地を道路と水平にするため、あるいはクルマの車庫を造るために地面を掘られて消滅Click!し、いまや数えるほどしか残っていない。住宅敷地を盛り土して大谷石の垣を築くのは、傾斜地が多く下水が不完全Click!だった下落合における大正期からの常套工法だが、現在は必要がなくなったとはいえ消滅してしまうのはとても寂しい気がする。
 
 
 そういえば、四ノ坂にあった刑部邸Click!も、風情のある見事な大谷石の築垣が中ノ道に面して見られた。建設から70年以上が経過し、邸の重みや樹木の根で道路側へ張り出すように石垣が傾いでしまったんだ・・・と、わたしは勝手に思いこんでいたのだが、傾斜の原因はぜんぜんちがっていた。刑部昭一様Click!によれば、石垣が傾きはじめたのは中ノ道の地下に落合下水処理場Click!へと向かう、大規模な下水本管を埋設する工事の直後からだそうで、おそらく掘削工事と土砂の埋めもどし処理の甘さから、中ノ道の地盤全体がゆるんでしまったようなのだ。同様の石垣のゆがみは刑部邸ばかりでなく、もう少し東寄りの邸でも見られていた現象だ。
 この中ノ道(下ノ道)に、改めて通りの名称をつけようという動きがあるらしい。アイデアの中には、「バカボン通り」というのもあるのだそうだ。わたしが幼児のころ、キングギドラと戦うゴジラでさえ「シェー!」をしたほど、赤塚不二夫のマンガは流行っていた。終生、下落合に住みつづけ、中井駅の近くへ飲みに通っていた赤塚不二夫を記念した通り名なのだろう。でも、「シェー! ミーのおフランスにもそんな通りはないざんす!」・・・ということで、できれば歴史のある鎌倉街道に「バカボン通り」はかんべんしてほしい。勝手なことを言わせていただければ、この道の両側(上落合/下落合)には大正時代から現在にいたるまで、あまたの作家や画家たちが暮らしてきているので、マンガも含めた「芸術の村通り」あるいは「芸術村の道」なんて名称はいかがだろうか? 新宿区が進める「落合文士(芸術)村」構想とも連携できるし、100年たっても陳腐化しない長持ちするネーミングだし、なによりも現・下落合側の雑司ヶ谷道とも1本の道名で連絡・連携できる・・・と思うのだけれど。
 
 「尾崎翠の旧居跡は、バカボン通りから美仲橋のあるところを左折してください」とか、「目白文化村はバカボン通りから坂を上がります」とか、「目白大学と目白学園は、バカボン通りの上にあります」なんて表現は、やっぱりどうしてもしたくない。・・・それでいいのだ。

■写真上:いまは存在しない、中ノ道(下ノ道)は四ノ坂下の2006年までの風情。
■写真中上:上は、1918年(大正7)発行の「早稲田・新井1/10,000地形図」をベースに地元の道名を記載。下は、雑司ヶ谷道沿いに残る昭和初期の造成とみられる大谷石の石垣。
■写真中下:上は、下水道工事のために中ノ道側へ傾いでしまった旧・刑部邸の大谷石垣。下は、同じく中ノ道沿いに残る大谷石垣だが、築80年前後が経過してかなり傷みが目立つ。
■写真下:左は、赤塚不二夫『おそ松くん』でお馴染みのイヤミ氏。右は、中ノ道の現状で右に見える石垣は1941年(昭和16)に建設された林芙美子・手塚緑敏Click!邸(林芙美子記念館)。