ウィリアム・メレル・ヴォーリズの名を聞くと、目白・落合地域というか東京では、近衛文麿Click!とマッカーサーとの「仲介工作」を行なった人物・・・としてのほうが知られているだろうか。文麿とヴォーリズは既知の間柄だったようで、そのつながりは文麿の京都あるいは軽井沢あたりにはじまるのかもしれない。その関係を示唆する出来事のひとつとして、1912年(明治45)に神田から移転してきた福音教会は、目白通りに面した約2,600坪の教会敷地を、隣接する近衛家から購入しているのではないか。ちなみに、当時の東側に接した近衛家敷地には、東京同文書院Click!(のち目白中学校Click!)が建っていた。そして、下落合に建設された落合福音教会Click!(のち目白福音教会に改称)の建築を手がけたのは、どうやらヴォーリズ(ヴォーリズ合名会社)であり、文麿がヴォーリズを来日まもないメーヤー夫妻へ紹介したのではないか?・・・とも想定できるからだ。
 ヴォーリズの建築作品リストには、以前から「H.マイヤー邸/東京都」という建物が記録されている。ところが、1912年(明治45)に建設された同邸が、東京のどこに建っていたのか皆目わからず、どうやら、とうの昔に解体されたか戦災で失われてしまった・・・と思われていたようなのだ。ところが先日、マップ作りClick!でご一緒した小道さんClick!より、「ヴォーリズの建築一覧にあるマイヤー邸。(メーヤーさんの自宅)ってことはないですよね?」というメールをいただき、つづいてとどいた作品リストとともに現存する「H.マイヤー邸」の外観写真を見て、わたしは愕然としてしまった。2006年まで下落合に建っていた、メーヤー館Click!=日本聖書神学校そのものだったからだ。
 ヴォーリズの作品リストに書かれた「ドイツ人宣教師H.マイヤー」とは、関西の宝塚市に住んだカトリック系のドイツ人Hermann Mayer宣教師(イエズスの聖心会修道女)のことだと思われ、のちに東京聖心女子学院の院長をつとめた人物だ。ところが、下落合の落合福音教会の宣教師館に住んだのは、プロテスタント系で米国人のポール・ステファン・メーヤー(P.S.Mayer)牧師であり、名前の頭文字が異なっている。ドイツ語ではマイヤー、英語ではメーヤー(メイヤー)と発音される同じ姓のMayerを、作品リストを制作するどこかの時点で取り違えてしまったのではないか・・・と考えている。


 ヴォーリズは関西を中心に仕事をすることが多かったので、手がけた建築が関西圏に多いせいもあるのだろう。作品リストを作成しているとき、Mayerという名前を関西の宝塚に住みのちに東京へと転居したH.Mayerと、おそらく混同してしまったのだと思われる。ちなみに、現在の一粒社ヴォーリズ建築事務所のご見解によれば、宗派的に考えてもカトリックのH.マイヤーとヴォーリズの接点は考えにくく、P.S.メーヤーとのつながりのほうが建築年も考慮すると自然だ・・・とのことだ。
※この記事から数日後、小道さんが一粒社ヴォーリズ建築事務所に残る原図とメーヤー館の意匠とを比較してもらったところ、同事務所より「間違いない」との認定をいただいた。
 作品リストとともに残された「H.マイヤー邸」とその姿を、山形正昭『ヴォーリズの西洋館~日本近代住宅の先駆~』(淡交社/2002年)から引用したのが、お送りいただいた上掲の写真だ。わたしばかりでなく、下落合とその周辺にお住まいのみなさんがご覧になったら、すぐにも目白福音教会の裏に建っていたP.S.メーヤー館(戦後は日本聖書神学校)そのものだと気づいていただろう。1930年(昭和5)に撮影された、目白平和幼稚園の庭池からの眺め(冒頭写真)と比べてみると、エントランス前にある生け垣の高さまでが、昭和初期までそのまま保たれていたのがわかり、メーヤー夫妻の几帳面な性格や厳格さが、あたかも伝わってくるようだ。
 目白福音教会の宣教師館(メーヤー館)に住んでいたメーヤー夫妻は、日米戦争がはじまると憲兵隊によってそのまま邸内に監禁され、1年後にはおそらく国際聖母病院Click!へと抑留されている。1939年(昭和14)に、いち早く帰米していた三女ジーン・メーヤーの記憶では、両親の抑留場所は「孤児院」と認識されているが、孤児たちも養育されていた宗派の異なるカトリック系の「マリアの宣教者フランシスコ修道会」=国際聖母病院のことだと思われる。ここには、当局の目を逃れて潜伏していた米国人、同じ福音教会のクレイマー牧師もいた。メーヤー夫妻は、抑留生活をさらに1年間つづけるが、1943年(昭和18)に米国へ捕虜交換船で強制送還されている。でも、聖母病院に潜伏していたクレイマー牧師★をはじめとする欧米人たちは、1945年(昭和20)に戦争が終結するまで日本にとどまりつづけた。戦後、いち早く救援物資のドラム缶が下落合一帯へパラシュート投下Click!されたのは、おそらくメーヤー夫妻の情報を1943年(昭和18)に米軍当局がキャッチしたからだと思われる。
★その後、クレイマー宣教師(女性)が「聖母病院に潜伏した」というのは、地元の誤伝ないしは“伝説”である可能性がきわめて高いことが判明Click!している。


 さて、ヴォーリズが設計したのは、メーヤー夫妻と4人の娘たちが暮らしたメーヤー館(邸)だけだったのだろうか? 1912年(明治45)から翌年にかけて建設された、当時は落合福音教会の建物で判明しているのは、いまのところ3~4棟だと思われる。ひとつは、落合福音教会の初代・礼拝堂だが、残念ながらその写真をいまだ入手できないでいる。1920年(大正9)に建てられた、2代目(?)の礼拝堂の写真はあるのだが、その時点で築8年の初代・礼拝堂は暫定的な建物だったのか、あるいはなんらかの不都合ないしは事故で失われたものか、さらには、そもそも1920年になるまで礼拝堂(教会)の建物そのものが存在していないのか、以前から気になっているところだ。
 大正期末まで、英語学校として使われていたメーヤー館の北側、目白通り沿いに位置する建物も、当初から建っていたものと思われる。1920年(大正9)に中村彝Click!が描いたと思われる『目白の冬』で、右端にチラリと描かれている建築だ。建物の意匠がメーヤー館にとても近似しており、まるで姉妹作品のような建築に見える。この建物も、同時期のヴォーリズの仕事である可能性がきわめて高い。そして、当の宣教師館(メーヤー館)のほか、1928年(昭和3)に設立される目白平和幼稚園の前段階、プレ幼稚園=保育園のような建物も敷地内にはあったらしい。その建物は、落合福音教会(目白福音教会)が建設された当初からの、なんらかの施設が使われていたのではないか。

 
 いまさらながら、メーヤー館の下落合から千葉県への移築が残念でならない。もう少し早く、「H.マイヤー邸」が「P.S.メーヤー邸」の誤記録であり、ヴォーリズが設計した明治期の初期作品だと気づいていれば、新宿区はその貴重性から積極的な保存を考慮したのではないだろうか? 目白通りをはさんで、北側にはF.L.ライトClick!が設計した自由学園明日館Click!が、南側にはW.M.ヴォーリズが設計したメーヤー館Click!が、700~800mほどの距離を隔てて向き合うように建っていたことになる。日本の建築界へ大きな影響を与えたふたりの作品が、これほど近接して建っていた地域は、全国的にみても稀ではないだろうか?

■写真上:1930年(昭和5)に撮影された、目白福音教会の宣教師館(メーヤー館)。
■写真中上:上は、ヴォーリズの建築リストに載る「1912年 ドイツ人宣教師 H.マイヤーの住宅」で、山形政昭『ヴォーリズの西洋館』(淡交社/2002年)より。下は、メーヤー館で暮らした人々。メーヤー夫妻(手前)と3人の娘たちで、長女が進学のために帰米したあとの撮影か。後列の右端が、戦中戦後を通じて日本びいきだったジーン・メーヤーだと思われる。
■写真中下:上は、大正末期まで英語学校として使われ、メーヤー館北側の目白通りに面して建っていた、よく似た意匠の洋館。下は、1920年(大正9)に完成した2代目礼拝堂。
■写真下:上は、1924年(大正13)に完成した2代目英語学校の校舎。下左は、1928年(昭和3)に設立された目白平和幼稚園。なお、礼拝堂と目白平和幼稚園の園舎は、1941年(昭和16)の火災で焼失している。下右は、2006年9月に移築作業スタート直後のメーヤー館。