以前、1945年(昭和20)8月15日の敗戦直後に、旧・下落合地域の広い範囲にわたって米軍による救援物資が、ドラム缶で投下されたエピソードClick!を書いた。今日まで伝わる地元の伝承には、下落合の聖母病院Click!へ向けた救援物資の投下だ・・・と解釈されているケースが多い。でも、わたしはドラム缶が実際に投下されたエリアをトレースしていくと、米軍が聖母病院の存在や所在地をあらかじめ知っていたとは、どうしても思えないということにも触れた。病院の所在地に配慮して、そのエリアだけ爆撃を避ける・・・などということは、それまでに東京で繰り返し行なわれていたB29による絨毯爆撃Click!では、ほとんどありえない想定だからだ。
 わたしは、「空襲では病院の爆撃が避けられた」というのは、多くのケースでは戦後に米軍の諜報機関が意図的に流布した情報操作、ないしは米軍(=軍国主義のクビキから日本を解放してくれた解放軍規定)の位置づけによる、戦後に生まれた“付会神話”ではないかと考えている。では、なぜ下落合には、救援物資のドラム缶があちこちに降ってきたのだろうか? その謎を解くヒントは、目白福音教会へ赴任していた米国人牧師P.S.メーヤー夫妻の監禁・抑留と、1943年(昭和18)に行なわれた捕虜交換船によるインドへの送還とが、密接に結びついている点にあるように思われる。戦後、メーヤー牧師はGHQの中枢にいて、日本におけるキリスト教(プロテスタント系)の教会復興と、布教活動の再スタートとに指導的な役割りを果たしている。
 1943年(昭和18)10月に日本郵船の捕虜交換船「帝亜丸」がインドのゴアへ入港し、同時に米国の「グリップス・ホルム号」が同港へ到着して捕虜の交換が終わると、メーヤー夫妻はさっそく米軍当局の尋問を受けただろう。そのとき、夫妻は1941年(昭和16)12月8日に日米戦争がはじまると、目白福音教会の自宅である宣教師館(メーヤー館Click!)へ憲兵隊により1年間監禁されていたこと、そして翌年には近くの「孤児院」施設へと移送されて抑留生活を送っていたこと、また「孤児院」の周囲は憲兵隊によって厳重に包囲され、東京各地から集められた多数の「敵性欧米人」が抑留生活を送っていたこと・・・などを、米軍へ通報したと思われる。
 
 さらに、「孤児院」で暮らしていたのは、憲兵隊によって都内から連行され捕虜交換船で送り返された「抑留名簿」に載る人々ばかりでなく、日米開戦と同時に地下へ潜伏した欧米人たちが建物内に隠れ住んでいる事実も、併せて米軍当局へ伝えていたにちがいない。特に目白福音教会では、メーヤー牧師の同僚であるクレイマー牧師が、1941年(昭和16)12月以来ずっと潜伏しており、同じ「孤児院」に抑留されていたメーヤー夫妻なら、当然それを認知していただろう。★
★その後、クレイマー宣教師(女性)が「聖母病院に潜伏した」というのは、地元の誤伝ないしは“伝説”である可能性がきわめて高いことが判明Click!している。
 さて、ここで留意しておきたいのは、抑留されていた施設のことをメーヤーは「孤児院」と表現している点だ。メーヤー夫妻が、カトリック系の「マリアの宣教者フランシスコ修道会」の建物を、「国際聖母病院」としてではなく、「孤児院」と記憶して(あるいは意図的に表現して)いたのは、のちに父親が回想する抑留時代の聞き書きをしている、三女ジーン・メーヤーの証言からも明らかだ。確かに、当時の国際聖母病院には、孤児院施設も併設されていたのだけれど・・・。
 つまり、下落合の各地へ救援物資のドラム缶が降ってきたのは、こういうことではないだろうか? 下落合の上空へとやってきた、救援機のパイロットたちがめざしていた大きめな建物が、病院(hospital)らしい建築物ではなく、メーヤー情報にもとづいて「孤児院」(orphanage)の建物だと認識されていたとしたら、その落とされたエリアが案外すんなり納得できる。すなわち、パイロットたちは付近の「孤児院」らしい建物を目標にしていた、ある意味では「学校」や「寮」のような様子をした建物を目標に投下していった・・・と想定できるからだ。焼け跡の空中写真を改めて鳥瞰すると、下落合で目白通りに面した目白福音教会からそれほど離れてはおらず、学校や寮のように見えそうな建物は、学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブ)と落合第四小学校、聖母病院Click!、落合第一小学校Click!の4ヶ所ということになる。そして、実際にドラム缶が空からバラまかれたエリアと、それらの建物の位置がほぼ重なっていることに気づくのだ。

 では、ドラム缶の中には、どのような救援物資が詰められていたのだろう。『私たちの下落合』(落合の昔を語る集い/2006年)に収録されている、いつも貴重な情報をお寄せくださる「落合の緑と自然を守る会」堀尾慶治様Click!の「戦中・戦後あれこれ(思い出すままに)」から引用してみよう。
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 ふたははね飛んでしまい、あたりには煙草のカートンボックス、チューインガム、ブレックファースト、ランチ、ディナーなどのレーションボックス(一人分ずつの食事が入った弁当のようなもの)等々が散らばっています。多少の英語は読めたので、一緒にいた十七才前後の私達は夢中で拾いまくりました。投下のショックは結構すさまじく、屋根の上までガムやキャンディが乗っていました。/レーションボックスには、それぞれに肉、野菜の缶詰から粉末のスープ、ジュース、デザートの菓子類、三~四本入りの煙草やチューインガムなどまで入っていました。これが戦地の兵隊達の戦争食かと思うと、彼我の格差に改めて驚嘆しました。片や乾燥米に乾燥味噌、乾パンに金平糖で戦う日本。その補給もままならず、草木で飢えを凌ぐとなれば、まさに天国と地獄の差です。国力、豊かさ、戦力の差を嫌というほど思い知らされました。/布で梱包してパラシュートをつけた包みもありましたが、これは衣類、靴の類で、そこには「抑留されている人達の物だから、日本人は取ってはいけない」という注意書きがついていました。/もう一つ驚いたのは、ココアを袋にも入れず、じかにドラム缶に詰めて蓋だけして投下したものが、ショックで蓋がはずれてあたりにぶちまけられていたことです。食料は注意書がないので嬉しくいただきました。 (同書「終戦後来た天の恵み?」より)
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 これらドラム缶に詰められた救援物資は、B29の編隊が低空飛行をしてはバラまいていったそうだ。ドラム缶をそのまま落としていく(だから地面に激突して中身が飛び散る)ケースと、送電線にひっかかって山手線を停めてしまったように、パラシュートをつけて投下したケースとがあったらしい。そして、注意書きには「抑留されている人達」宛てと書かれていたのであり、決して病院へ収容されていた入院患者宛ての、人道的な支援物資でなかった点にも留意したい。
 菓子類や甘味が多く含まれていたところをみると、嗜好品に飢えていると想定された抑留者への“差し入れ”のようにも思えるのだが、やはり「抑留されている人達」がいる建物は病院ではなく、メーヤー証言による「孤児院」と認識されていたようにも感じるのだ。

■写真上:路地から眺めた、聖母病院のフィンデル本館Click!尖塔鐘楼部。
■写真中上:左は、メーヤー夫妻が憲兵隊によって1年間監禁されていた下落合の自邸(メーヤー館)。右は、聖母病院がリニューアルした際に新たに建てられた寮棟。
■写真中下:1947年(昭和22)に撮影された空中写真にみる旧・下落合東部。救援機のパイロットが目標にしたと思われる、「孤児院」に見立てられそうな建物はドラム缶投下エリアと重なる。
■写真下:「孤児院」に見えたかもしれない下落合の建物4つ。いずれも1947年(昭和22)の空中写真より、学習院昭和寮(上左)と落四小学校(上右)、聖母病院(下左)と落一小学校(下右)。