下落合の湧水は、いまでも御留山Click!の谷戸のひとつを抱える「おとめ山公園」で見ることができる。でも、泉から湧く水量はわずかなもので、降雨のあとでも「こんこんと湧く」という表現からはほど遠いのが現状だ。おそらく、周囲の地面の多くがコンクリートで覆ってしまったのと、ビル状の建築で岩盤まで打ちこまれた杭によって、地下水脈があちこちで寸断されているせいだろう。
 地表で見ることのできる天然の泉は、現在では「おとめ山公園」のみとなっているけれど、地下へ暗渠化Click!されてしまった湧水源は、旧・下落合全域に展開している。そして、いまでも地下水源からはかなりの量の湧水があり、下水道へそのまま流れこんでいるものと思われる。記録的な大雨が降ると、ビルの地下室へ膨らんだ地下水脈がせり上がってくるのをみても、落合の水脈はいまだ健在なのがわかる。下落合と高田町の境目あたりにあった金久保沢Click!の泉、ゆたかな水量を誇った林泉園Click!の湧水源、下落合横穴古墳Click!や下落合摺鉢山古墳Click!の前方部にあった弁天社の泉、聖母坂の東西にある切れこんだ谷戸の諏訪谷Click!と「不動谷」Click!の泉、目白文化村Click!の第一文化村にあった前谷戸の弁天社近くのゆたかな湧水源・・・などなど、これらはすべて暗渠化され、現在は地下の下水管を流れている。
 そんな、下落合の昔日の姿は、椿山Click!(現・椿山荘)や関口バッケClick!(芭蕉庵)など目白崖線沿いでも見ることができるが、妙正寺川の支流域でもそこここで観察することができる。中野側にある本来の村名は江古田(えごた)、武蔵野鉄道にできた駅名から練馬側では江古田(えこだ)と呼ばれる地域を流れる、江古田川の流域だ。余談だけれど、「えごた」と「えこだ」の地域名は、幕府の練兵場があった高田(たかた)村の高田馬場(たかたのばば)と、山手線の駅名に付けられた「たかだのばば」の関係によく似ている。「たかだのばば駅は新たに院が創案した駅名であり、江戸期の高田馬場(たかたのばば)とはなんの関係もない」と、地元の説明会で戸塚や高田の地域住民の反対Click!を、傲岸不遜に無視してふりきった鉄道院と同じようなことが、江古田の地名と駅名をめぐって起きているのだろうか。
 
 
 
 さて、下落合ではチョロチョロとした湧水で、なかなか見られなくなったこんこんと湧く谷戸の泉の様子を、江古田川の流域で見てみよう。樹木に囲まれた木蔭の湧水源(①)からは、豊富な量の水が間隔をおいて水面を大きく盛り上げるように湧いている。(②) 間歇泉から湧いた水流は、ゆたかな流れを形成して下り(③)、やがて付近の農家の人たちが畑で採れた野菜類を洗う、“洗い場”Click!と呼ばれる小池を形成することになる。(④) さらに、その水量の多さから、いまやかなり大きな音を立てて流れる小川(⑤)は、洗い場よりももう少し大きな下流の池へと注ぎこむ。(⑥)
 崖地の中腹や斜面に形成されたこのような池には、古くから弁財天Click!あるいは稲荷Click!(鋳成)が奉られていることも少なくない。池には、カモやガン、オシドリ、サギ、カワセミ、セキレイなどの水辺の野鳥が翼を休め、夏になると数多くのトンボやチョウ、セミClick!などが飛びかう光景が見られる。江古田の池には・・・と思って近づくと・・・、グァグァと文句をいう家禽のアヒルが気持ちよさそうに泳いでいた。(⑦爆!) 水が清廉でさえあれば、ホタルClick!も見られるようになるのだけれど、下落合でも養殖しているように、23区内ではなかなか天然のホタルにめぐり会うことができない。さらに渓流は谷間を下り(⑧)、やがてはより大きな川(⑨ここでは江古田川)へと合流することになる。
 
 
 さて、この湧水源や清流は江古田駅の近く、豊玉1丁目にある武蔵大学(旧・武蔵高等学校)のキャンパス内にあるのだけれど、まさか・・・と思い、念のために大学の関係者へ確認してみる。
 「武蔵野のきれいな湧水源や渓流の風情を、よく残されてるんですねえ」
 「あ~、あれは大学が新しく造ったもんなんですよ」
 「ゲッ、・・・じゃあ湧いている泉は?」
 「ポンプアップの循環です。大学造るときに埋めちゃったのを、再現したんですなぁ」
 「ケゲッ、間歇泉で超リアルなのに・・・。じゃあ弁天社は?」
 「さあ、あたしは長く勤めてないからわからんけど、聞いたことないなぁ」
 「ゲゲゲッ」
 ・・・というわけで、わたしは武蔵大学の超リアルな湧水源や“洗い場”に、すっかりだまされてしまった。不規則な間隔をおいて強弱に盛り上がる湧水のしかけは、おそらくコンピュータ制御によるリアリティの追求なのだろう。1909年(明治42)の「新井1/10,000地形図」(⑩)を見ると、現在は武蔵大学のある丘上の南、細長い谷戸の出口あたりに、確かに弁天社と池を確認することができる。この地域の字名(あざな)さえ、「辯天」だったはずなのだ。大学の方は、わたしが「弁天社」あるいは「弁財天」と訊いたので、おそらくわからなかったのだろう。あとで、すぐ近くの目白通り沿いに、「市杵島神社」として現存していることがわかった。
 
 武蔵大学の「湧水源」には、少なからずガッカリしたけれど、少しでも昔の緑や自然を取りもどし、地域の記憶を後世へと伝えるために(大学の関係者はそのように説明された)、あとからきちんと再現している発想は素晴らしい。いまでこそ、まだ家禽のアヒル君がグァグァと棲みついてるだけだけれど、そのうち野鳥たちもまた、たくさん訪れるようになるかもしれないのだ。

■写真上:武蔵野の崖線に刻まれた谷戸を流れる、典型的な渓流の風情。
■写真中上:湧水源が“洗い場”や小池を形成し、やがては小川となって本流へと注ぎこむ。
■写真中下:下左は、江古田川の現状。川の左手は中村彝Click!の主治医・遠藤繁清Click!がつとめていた旧・結核療養所で、現在は「江古田の森公園」となっている。下右は、1909年(明治42)に制作された「新井1/10,000地形図」にみる、旧・武蔵高等学校が建設される前の豊玉界隈。
■写真下:左は、1923年(大正12)に建設された旧・武蔵高等学校の本校舎。現在は、武蔵大学の3号館となっている。右は、1928年(昭和3)に建てられた大講堂。