落合地域に「嵐」が吹いたのは、1945年(昭和20)前後の建物疎開Click!や山手空襲Click!のときばかりではない。1980年代の後半に、落合一帯の景観をさま変わりさせる「大嵐」がやってきた。下町では、1923年(大正12)の関東大震災Click!と1945年(昭和20)の東京大空襲Click!につづき、戦後20年を経た1960年代半ば、「東京オリンピック」による破壊的な「嵐」がやってきて、地上げはもちろん、国や自治体による土地の強制収用などが次々と行われ、町名変更Click!とともに街の様相を一変させている。それから遅れること20年、狂信的な「土地神話」の横行とともに、ちょうど旧・江戸市街を囲むドーナツ状地帯のひとつである落合地域が、ついに「嵐」へ巻きこまれた。新宿が「副都心」とは呼ばれなくなり、都庁の移転が決定して「新都心」と呼ばれはじめたころだ。「東京オリンピック」という国家事業により、下町から追われるように山手へ移り住んだ江戸東京人たちは、「またかよ、いい加減にしろ!」と思ったにちがいない。あるいは、もともと地付きであり根っからの山手の人たちは、「いったい、これは何ごとだ?」と感じられたのではないか。
 ちょうどそのころ、朝日新聞(東京版)の朝刊に、下落合へ取材したルポルタージュが連載された。1987年(昭和62)2月4日から11日まで、2月9日(月)を除く7日間にわたる「いま下落合四丁目で/ルポ・新集中時代」だ。わたしは当時、まさに下落合4丁目に建っていた聖母坂のマンションに住んでいて、間違いなくこの記事を読んでいるはずなのだが、記憶から丸ごとスッポリ抜け落ちている。きっと、下落合の景観やコミュニティが少しずつ崩壊していく様子を伝える同記事にいたたまれず、一読しただけで記憶からデリートされてしまったのだろう。新聞の貴重な切り抜き資料を提供くださったのは、落合の緑と自然を守る会の代表・堀尾慶治様Click!だ。当時の下落合が、どのような「嵐」にみまわれていたのか、記事の一部から引用してみよう。
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 融資のメドもつき、昨年二月、建設業者との打ち合わせに入った。ある時、業者はこう持ちかけた。「土地を売って、別のところでアパート経営っていう方法もありますがね」。業者が帰ると、店の二階に上がり、こたつにもぐり込んだ。お茶を持って来た妻に、「ここを売るかもしれんな」と、ポツリと話した。妻は何も答えなかった。/「じいさん、ばあさんだって六十年ほど前、手っ取り早く稼げるのは八百屋だって、神田から越して来たんだ。時代の波に乗ってもいいじゃないか」。自分にそういい聞かせた。/昨年七月。百六十平方メートルほどの敷地を、新宿の不動産会社に五億円で売った。坪一千万円。相場の二倍以上、である。 (同記事(2)「『神話』が生まれた・土地を売ったら五億円」より)
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 典型的な山手の街といっても、戦前とは異なりお屋敷でも普通のサラリーマン家庭が多い。当然、狂乱地価の影響をまともに受け、家屋を維持するのにせいいっぱい、固定資産税や相続税が払い切れずに土地家屋は次々と売られた。同時に、わたしが70年代から目にしていた緑ゆたかな街・下落合(旧・下落合全域)が、まるで裸にむかれるように、みるまに変貌していった。
 地上げもそこかしこで横行し、特に上掲のように目白通り沿いがすさまじく、いまでも語り草になっているほどだ。わたしの感覚では「一夜にして」、店が消え更地になった区画も少なくない。また、店舗の入れ替わりも激しくなり、少し前までそこがいったいなんの店だったのか思い出せないこともしばしばだった。まさに、親父と歩いた60年代後半の、日本橋Click!の“再現”だった。
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 「残り少ない商店会だから、和気あいあいに、と思っているんですがねぇ」/先ごろ、商店会の会報「目白通りかわら版」の二月号が、配られた。五億円が転がり込んだ、あの八百屋の「神話」も登場。「あれ以来、街も浮足だってきた」と書く。/最近では、仲間が集まると、こんな冗談とも本気ともつかない話が交わされる。/「いっそのこと『ニコニコしてない会』に名前を変えたら、いかがなものですかな」 (同記事(3)「ニコニコしてない・仲間去り変わる町並み」より)
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 目白通りの空がせまくなるのと、下落合の丘上から眺める新宿の景観がみるみる変貌するのとは、みごとにシンクロしていた。新宿駅周辺の地上げのすさまじさは、さまざまな事件(殺人事件さえウワサされた)の発生とともに、落合地域の比ではなかったのだろう。土地家屋を「売って当然」、「売らないのはバカだ」という顔さえして、立ち現われてくる建設業者や地上げ屋たちを前に、そして想像を絶する札束を前に、浮き足立たないのが不思議なくらいの時代だった。もっとも、幸か不幸かうちは貧乏なので、そんな狂乱とは無縁でいられたにすぎないのだけれど・・・。
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 住宅情報誌の一戸建て・土地売買欄に、彼女の住むアパートが載っている。「目白駅、歩十二分」「一種住、一五二・五二平米、私道なし」。価格は、「三億九百万円」とある。
                    (同記事(6)「一万分の二十五・探す新居一万円増限度」より)
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 いまでも、落合地域にはその余波がつづいているのだろうか。少し広めの土地があると、すでに供給過剰となっているにもかかわらず、緑を根こそぎ伐採しての集合住宅建設が止まらない。新宿区が、遅まきながら「七つの都市の森構想」Click!の中で、目白崖線沿いの旧・下落合全域(中落合・中井2丁目含む)を「落合地域」と指定したにもかかわらず、緑の伐採は止まらない。
 
 唯一、例外的にストップしたのは、皮肉なことに建設業者へ違法な「特例認定」を出した、当の新宿区を被告にして争われている、下落合4丁目の“タヌキの森”Click!ケーススタディだけだ。

■写真上:70年代に比べ、緑が20%ほどになってしまった現・下落合地域。
■写真中上:22年前の朝日新聞に掲載された、「いま下落合四丁目で/ルポ・新集中時代(4)」。
■写真中下:左は、六天坂から眺めた新宿西口方面。もはや坂から、新宿の高層ビル街さえよく見えなくなりつつある。右は、何年もむき出しのままの状態がつづく集合住宅跡地のバッケ。
■写真下:左は、記事にも登場するオバケ坂。右は、その坂上で工事がストップしたタヌキの森。