曾宮一念Click!は、ネコが大ッキライだったようだ。日本橋の大川端・浜町生まれ(魚河岸が近い)で、周辺はネコだらけの街だったと思われるのに意外だ。それでなくても、下落合には昔からネコが多かっただろう。諏訪谷Click!に面した曾宮邸のまわりを、ネコもタヌキもウロウロしていたにちがいない。静岡の江崎晴城様Click!よりお送りいただいた貴重な資料、1938年(昭和13)に曾宮一念が執筆したエッセイ『いはの群』(座右寶刊行会)から引用してみよう。(カッコ内は引用者註)
  ●
 (ネコの)このゴロゴロが一方猫嫌ひにとつては頗る気に入らないもので、あの鑢(やすり)の如き舌でなめられるに至つては言語道断である。体躯全体がいやに柔軟で伸縮し四足の爪をたてて物にパリパリと取り付く感じは毛虫芋虫がその不気味な腹足で吸ひ付いてはなれぬ様子に酷似してゐる。犬に石を投げると当らなくとも悲鳴をあげて飛んで逃げるのに猫は庭の垣根まで来ると眼を光らせてこちらを窺つてゐる。かういふ懸引(ママ)のあるところを手管の快さとして猫好きが喜ぶものと見える。猫嫌ひは猫さへ見ると手近にあるものを選ばずに投げ付ける、私もうつかり人の前で石を投げ一度に信用を失つたことがある。/ところが私の身近に猫嫌ひを二人発見して大いに安心した。その一人S氏は婦人患者を診察中に窓外の猫に物を投げたといふ話をした。勿論私以上に信用を落したさうである。 (同書「庭のいざこざ抄」より)
  ●
 これまで、ネコがウロウロしていたと思われる曾宮邸の庭や、目の前に口を開けた諏訪谷など、邸周辺の風景を描いた作品をこちらでもご紹介してきたけれど、江崎様より邸周辺を描いた曾宮一念作品を新たにお送りいただいた。そのうちの1点は、モノクロでしかご紹介できなかった1925年(大正14)制作の、二科展樗牛賞を受賞した『荒園』も含まれている。江崎様は、曾宮一念が98歳のときに記者としてインタビュー(『画家は廃業』静岡新聞社/1992年)されており、以前にご紹介Click!した新宿歴史博物館による99歳の「曾宮一念氏インタビュー」(『新宿歴史博物館紀要・創刊号』/1992年)とともに、曾宮晩年のかけがえのない貴重な記録資料となっている。また、その後も曾宮家と親しくされており、下落合界隈も含めたたいへん貴重な情報や資料をお持ちだ。
 

 さて、江崎様からいただいた冒頭の作品は、1923年(大正12)制作の曾宮一念『夕日の路』だ。正面に見えている樹木は、曾宮が家を建てる前から庭に生えていた桐で、その左手に見える尖がり屋根の西洋館が曾宮邸だ。右手には諏訪谷があり、正面に見えている長くて白い塀が、わたしも1970年代に目にしていた旧・浅川邸(→旧・土井邸)の塀。そう、佐伯祐三Click!が「セメントの坪(ヘイ)」Click!と同日、1926年(大正15)10月23日に描いた「浅川ヘイ」Click!そのものだ。
※「セメントの坪(ヘイ)」には、制作メモに残る15号のほかに曾宮一念が証言する40号サイズと、1926年(大正15)8月以前に10号前後の作品Click!が描かれた可能性が高い。
 なお、手前の道は現在の諏訪谷沿いの、できるだけ直線化されてしまった道路ではなく、やや北側にカーブして草原へ入りこんだ旧道(もともとは畑の畝道)だと思われる。桐の木の手前で右に、すなわち諏訪谷のほうへ急カーブしているが、その先には諏訪谷へのちに建設される野村邸の白いセメントの塀の屈折部あたりへと抜けている。この草原の道は、佐伯も「セメントの坪(ヘイ)」の手前に、諏訪谷沿いの道路とは別に描いている。その北側へとカーブする道は、1926年(大正15)制作の「下落合事情明細図」にも採取されており、現在のように角度をできるだけ抑え、道筋を滑らかにした道路が整備されたのは、諏訪谷の開発が最終的に完了した昭和初期のころだと思われる。また、このとき大六天の横の道=久七坂筋にも大きく手が入れられ、北側から南下する道と接合して十字路が形成されたと思われるのだが、そのテーマはまた別の記事で書いてみたい。
 
 つづいて、1925年(大正14)制作の曾宮一念『荒園』(油彩)。これは、以前にもこちらにモノクロで掲載してきた作品だ。やはり、カラーで観ると細かなディテールまでがよくわかる。曾宮邸の庭から諏訪谷側、南南東を向いて描いた作品で、右手から伸びているのは桐の木の枝、左手には白いブドウ棚が描かれている。曾宮邸の敷地は、盛り土がやや高めになっているが、正面には野村邸の白いセメントの塀が見えず、同年にはまだ築造されていなかったのがわかる。また、諏訪谷に繁っていた巨木Click!の位置が、カラーの作品画像からハッキリとわかる。ブドウ棚の向う側を観察すると、巨木は谷の下ではなく、久七坂筋のほぼ尾根上、大六天境内の南側あたりに繁っていたことになる。そして、1925年(大正14)当時はこの位置に、また佐伯の『下落合風景』シリーズClick!の「セメントの坪(ヘイ)」が描かれた1926年(大正15)現在も、いまだ元の場所にあったのであり、この巨木が大六天西側の谷へと下りる坂沿いに移植されたのは、おそらく昭和初期のころだろう。
 もうひとつの作品は、曾宮邸の庭から東南東の方角を見ている同タイトル『荒園』で、1931年(昭和6)に描かれた水彩画だ。左手から伸びている塀は、かなりデフォルメされているけれど、もちろん現在の消防団倉庫や大六天のある十字路までかかる「浅川ヘイ」。庭木の色彩が、大正期の曾宮作品に比べてかなり大胆だが、右手奧に見えている家屋は、佐伯も「セメントの坪(ヘイ)」で描いている南北に細長い内藤邸の2階家。空襲からもかろうじて焼け残り、わたしも70年代に目にしていた古い邸の姿だろう。(旧・浅川邸あたりまでが空襲で延焼している) ただし、これだけデフォルマシオンが激しいと、正確な位置関係やモチーフの形状が曖昧なのでイマイチ判然としない。

 1925年(大正14)制作の曾宮一念『冬日』も加え、それぞれの描画ポイントを特定してみよう。曾宮が描くのは、1923年(大正12)から1931年(昭和6)にかけて8年にわたる邸周辺の風景だが、これに佐伯祐三が1926年~1927年(大正15~昭和2)に描いた諏訪谷付近の作品Click!(「曾宮さんの前」など)を重ね合わせると、同谷の変貌ぶりがよくわかる。わずか数年で、草地が拡がっていた諏訪谷は、“洗い場”の南への移動とともに、アッという間に住宅で埋めつくされている。
 関東大震災の直後より、市街地から郊外へと移り住む人々がいかに多かったのかがわかる風景だ。諏訪谷の変貌ぶりは、そのまま当時の東京郊外における住宅造成地の縮図といえるだろう。では、次回は諏訪谷の尾根上に建っていた、曾宮一念邸を拝見してみよう。江崎様、貴重な資料をお送りくださり、ありがとうございました。

■写真上:1923年(大正12)制作の曾宮一念『夕日の路』、「浅川ヘイ」を見られるのがうれしい。
■写真中上:上左は、1926年(大正15)発行の「下落合事情明細図」にみる“旧道”の様子。上右は、同年に描かれた佐伯祐三「セメントの坪(ヘイ)」にみる、消えかかっている“旧道”と造成されたばかりの“新道”の道筋。下は、1925年(大正14)に描かれた曾宮一念『荒園』。
■写真中下:左は、1931年(昭和6)制作の曾宮一念『荒園(水彩)』。右は、1925年(大正14)に描かれた曾宮一念『冬日』。同作と『荒園』などとともに同年、曾宮は二科展樗牛賞を受賞している。
■写真下:1947年(昭和22)の空中写真にみる、各作品の描画ポイント。昭和初期まで、諏訪谷一帯は大規模な造成が行われており、絵と空中写真との間にはかなりの隔たりがあるだろう。