中村彝Click!に用意してもらった彝アトリエ近くの借家へ、ドロボーが入った曾宮一念Click!の想い出話を先にご紹介しているが、彼は諏訪谷に面した下落合623番地に建てた自宅Click!でもドロボーの被害にあっている。このときは自宅内部への侵入ではなく、庭先にこしらえた小さな鶏舎から佐伯祐三Click!から渡仏する際に譲ってもらったニワトリClick!が、すべて盗まれている。そのときの様子を、『いはの群』(座右寶刊行会/1938年)から引用してみよう。
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 佐伯がくれた木通は日除棚によくのびて、もう一二年春は渋い菫色の小花を匂はせ、秋には天然の葛饅頭の甘き果を沢山に味はせてくれたが、その佐伯が洋行をするから鶏をもらつてくれといふので、よろこんで庭の東隅に古材で寝部屋を造り、昼中は庭に放ち飼ひにした。雄二羽雌五羽の肥えた黒鶏で荒れるまゝの武蔵野庭園を、足で餌を漁りながら七羽団楽してあちこち陽を浴びては遊んでゐた。(中略)/或る朝、寝小屋の戸を開けに行くと、そこには一羽も居ず全くのもぬけのからになつてゐた。家内中見に来たが勿論誰にも見えるわけもない、鶏ドロボーなのである。夜盲とはいひながらよくも声も立たせずに七羽ともつれ去られたものかと、忍び込むドロボーの姿とまぬけな鶏共の格好を考へるとくやしさと共におかしさが湧いてくる、その後板橋にて稀代の鶏ドロボー捕はるの報が紙上に見えた。フランスの佐伯にこのことをしらせてやつた。
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 当時は、ドロボーがあちこちに出没していて、資料に当たっていると被害の記録にぶつかる。目白文化村Click!近くの落合府営住宅Click!には説教強盗が出現し、ドロボーを連行中に拳銃を奪われて撃たれ、巡査が殉職したいわゆる「ピス平事件」Click!さえ発生していた。当時の防犯常識では、家を頑丈な高塀でくまなく囲み侵入を防ぐという、今日とはまるっきり逆の危機管理Click!が行われており、隣り近所など周囲からの「見えない化」が安全確保の基準となっていた。佐伯が描く『下落合風景』Click!にも、さまざまな塀や柵が登場している。曾宮邸前を描いた「セメントの坪(ヘイ)」Click!もそのひとつだが、1926年(大正15)10月23日の「セメントの坪(ヘイ)」と同日に制作Click!された「浅川ヘイ」もまた、曾宮邸の東隣り、浅川邸につづく塀をモチーフにしたものだろう。この「浅川ヘイ」が、はたしてどのような作品だったのかは、画像が残されていないのでまったくわからない。
※「セメントの坪(ヘイ)」には、制作メモに残る15号のほかに曾宮一念が証言する40号サイズと、1926年(大正15)8月以前に10号前後の作品Click!が描かれた可能性が高い。
 
 静岡の江崎様からお送りいただいた、曾宮一念の『夕日の路』(1923年)、あるいは曾宮邸の庭先から撮られた写真に、浅川邸の長い辻塀がとらえられている。1927年(昭和2)4月に新宿紀伊国屋で開かれた「佐伯祐三個展」Click!には、「浅川ヘイ」は出品されていただろうか? きょうは、佐伯が描いた「浅川ヘイ」がどのような作品だったのかを想像してみたい。
 浅川邸の道路沿いの塀は、西側と南側に面して“L”字型に存在していた。現在は久七坂筋の道路と、旧・浅川邸の西側を南北に通う道路とは、大六天や消防団倉庫の地点で十字路に結ばれているけれど、大正期にはこの十字路は存在していなかったと思われる。1909年(明治42)に発行された新井1/10,000地形図や、1923年(大正12)の同地形図を参照すると、久七坂筋の北上する尾根道は、浅川邸西側の南北道へスムーズに接続されておらず、すなわち浅川邸と曾宮邸の前で十字路を形成しておらず、浅川邸の南側に面した東西道へT字型に近い接続をしている。久七坂筋の北上する道が、高嶺邸Click!をすぎたあたりで西へと急に屈曲し、浅川邸の西側南北道へと接続する、現在の十字路が形成されたのは、諏訪谷の宅地開発が最終的に完了したと思われる昭和の最初期のころだろう。換言すれば、そのぶん大六天の境内東側が道路によって大きく削られ、当初の境内の3分の1以下になっているのではないかと思われるのだ。
 佐伯が「浅川ヘイ」を描いた1926年(大正15)10月23日には、現在のようなきれいな十字路はいまだ整備されておらず、大六天の境内が大きく北側および東側へと、久七坂筋の道沿いに張り出していたのではないだろうか。境内の南側に生えていた巨木の移植Click!も行われていないこの時期、どこにイーゼルを据えて「浅川ヘイ」は描かれたのだろうか? 佐伯は、曾宮邸のある諏訪谷周辺で、少なくとも7点の『下落合風景』を描いている。先述の「セメントの坪(ヘイ)」のほかに、曾宮一念が出来が悪いと酷評する40号の同バリエーション作品Click!、諏訪谷に新築中の住宅群をとらえた「曾宮さんの前」Click!が2作品、またほぼ同位置である南側の尾根上から雪景色の諏訪谷住宅群を描いた「曾宮さんの前(雪景色)」Click!が2作品、そして「浅川ヘイ」を加えれば計7点となる。

 佐伯は、下落合において塀あるいは柵の構造物を描くとき、ひとつの大きな表現特徴が見られる。それは、塀や住宅などに沿った道筋とともに、きわめてパースのきいた構図を数多く採用している点だ。第三文化村から「菊の湯」の煙突をとらえた、めずらしく青空の広がる『下落合風景』Click!、薬王院の旧墓地のコンクリート塀を描いた「墓のある風景」Click!、二ノ坂Click!とその坂上からの眺めを描いた「遠望の岡」(?)Click!などに、その特徴がよく表れている。塀や柵などがなく、ふつうの住宅地を描くときも、非常にパースペクティブのある構図を展開している。そして、そこに描かれた道路や敷地は、整えられた街角や大通りに面した堅牢で大型建築が並ぶ景観ではなく、また大きな西洋館や屋敷が建ち並ぶ下落合のすでに落ち着いてしまった住宅街でもなく、開発途中で工事をしているまっ最中のエリアか、あるいは開発が終わったばかりの赤土の色さえ真新しい場所であることが多いのは、これまで何度も記事やコメントで触れてきたとおりだ。
 これら佐伯の描画グセを前提に「浅川ヘイ」を想像すると、画面の下段に道路を描き入れ、その左手ないしは右手に浅川邸の塀を描いた、奥行き感のある構図だった公算がきわめて高い。すなわち、佐伯がイーゼルを立てた可能性のある描画ポイントは、ほぼ4箇所に絞られることになる。そのうちの1ヶ所、浅川邸の南側に通う東西道から大六天方面を見て描いたのが、掲載している拙い「下落合風景」だ。1926年(大正15)10月23日は、快晴とはいかないまでも晴れており、昼すぎに「浅川ヘイ」を描いたとするとこのような情景になっただろうか? 左手に描いた2階家は、「セメントの坪(ヘイ)」にも登場している南北に細長い内藤邸、正面は北側に鳥居が設置されていたいまだ広い境内の大六天、その背後が野村邸のセメントの塀、右手が浅川邸の塀で、その向こう側に見えているのが曾宮邸の赤い屋根と、庭に植わっていた桐の大木だ。曾宮邸の赤屋根を描きたいために、浅川邸の庭木を勝手に少し刈り取らせてもらい、佐伯の身長を2mぐらいにしてみた。(爆!) 余談だけれど、手前左手の敷地には1970年(昭和45)、池の上キリスト教会Click!が建設されている。
 
 「浅川ヘイ」は戦災で焼けたか、あるいはそれとは気づかれずに個人のお宅で眠っているのか、戦後に佐伯の展覧会へ出品された記録はない。このようなパースのきいた構図で、右手あるいは左手に下部が板塀だった和風の練塀が描かれており、描写が佐伯のタッチに似ている油彩の風景画をお持ちの方はいらっしゃらないだろうか? 当時、大阪の兄・祐正が主宰した佐伯祐三作品頒布会を通じて、『下落合風景』が多数販売されていると思われるので、いまだ現存しているとすれば、おそらく西日本方面ではないかと思われるのだが・・・。

■写真上:1923年(大正12)の曾宮一念『夕日の路』に描かれた浅川邸の塀と、1925年(大正15)の佐伯祐三「セメントの坪(ヘイ)」との合成。年代や描画角度が異なるので乱暴な合成だが、佐伯作には育った桐の枝と、曾宮邸の庭に増築された小屋か棚が左端に描かれている。古くから下落合にお住まいの方なら、1970年代まで面影のあったこの風景にお心当たりがあるだろう。もちろん、すでに早い時期から野村邸の「セメントの坪(ヘイ)」はなく、巨木が北へ移植されていた。
■写真中上:左は1909年(明治42)に作成された「新井1/10,000地形図」で、右は1923年(大正12)に作成された同地形図。久七坂筋と浅川邸西の南北道とが、稲妻型に接続されていた様子が描かれており、大六天北の整った十字路はいまだ形成されていない。
■写真中下:1947年(昭和22)の空中写真をベースに、佐伯が描いた諏訪谷をめぐる7点の『下落合風景』の描画ポイント。「浅川ヘイ」は、可能性のある4ヶ所のポイントを記載している。
■写真下:左は、想定描画ポイントのうちいちばん東側の道筋から諏訪谷や曾宮邸方面を向いてデッチあげた拙作「浅川ヘイ」。右は、同ポイントから見た現状。