いまも昔も、お隣り近所で一度話がこじれると、あとあとまで尾を引くことになるのは変わらない。下落合623番地にアトリエClick!を建てた洋画家・曾宮一念Click!と、その西隣りへ敷地が地つづきだった下落合622番地の日本画家・川村東陽との間がこじれたのは、どうやら当初から川村側になんらかの含むところがあったようだ。同じ画家同士、しかもふたりとも東京美術学校を卒業した同窓だったにもかかわらず、曾宮一念は引っ越し早々に唖然とする目にあわされている。
 ちなみに、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」の中では、「川村東郷」と記載されているけれど、実際には川村東陽(川村孝)が正しい。1938年(昭和13)に作成された、詳細な地域地図である「火保図」において、採取された住民名があちこちで誤っていることはめずらしくないけれど、「下落合事情明細図」における住民名の誤記入はめずらしい。
 当時、東京美術学校の日本画科と洋画科とでは仲が悪かった・・・なんてことは聞かないが、川村東陽は洋画家に対してなんらかの偏見を持っていたか、あるいは借地権か敷地境界などをめぐるなにかのトラブルが、曾宮が同所へ引っ越してくる以前から起きていたものか、彼も書いているように「珍しい事件」でわけがわからない。引っ越してきた当初、外出するので鍵を預かってもらいに川村家を訪ねた曾宮は、初対面だったと思われる同家の主婦から、ヒステリックに怒鳴られたようだ。1938年(昭和13)に発行された、『いはの群』(座右寶刊行会)から引用してみる。
  ●
 その頃私は友人の画室を借りて或る工場の鳥瞰図をかいてゐた。或る夕方鍵を近所の植木屋へ預けにゆくと門が閉つては入れない。それではとその隣家へ事情を話して頼むとそこの主婦がてんでとりつけ無い断りやうをする。なほも頼むでみると恐ろしい剣幕で私は追いかへされてしまつた。これが何と今後の地所続きになるのであるから少なからず憂鬱にされてしまつた。
  ●
 
 その直後、川村家は曾宮邸の西側敷地に沿って、地つづきの境界に生えていたカナメモチの生け垣をすべて引っこ抜いてしまった。塀でも築くのかと思っていると、そのまま放りっぱなしだったようだ。曾宮が1923年(大正12)に描いた、『夕日の路』の左手に見えているのが、川村家が植えていたカナメ垣の残りだろう。つまり、新住民のために敷地に沿って生け垣を植えておくのは、わざわざ境界に生け垣を造ってやってるようなもので「損」だ・・・と思ったらしい。これを皮切りに、曾宮家の前の道に「ウンコまじりの水」を流したり・・・と、川村家からの嫌がらせはつづく。
 川村東陽は、1882年(明治15)に東京美術学校日本画科を卒業しており、1916年(大正4)卒業の曾宮とは30歳以上も年が離れていただろう。この当時は村会議員だったかどうかわからないが、昭和に入ると落合町の町議会議員になっているところをみると、引っ越しをしてきた曾宮が「地域ボス」的な存在の彼へ挨拶に行かなかった(?)ので根に持ったものか、あるいは「有力者」に曾宮がペコペコへつらわなかったのが気に障ったのだろうか? いずれにしても、元・旗本の家の出で江戸期からの同郷人にしては、まことに大人げなく情けない。
 曾宮家に文句をつけるときには、直接伝えには来ないで同家の書生をわざわざ寄こしたようだ。この書生たちは、なんと東京美術学校の古い制服を着ていたらしい。佐伯祐三Click!から渡仏前に贈られたニワトリClick!も、文句の対象になった。同書から、少し長いが引用してみよう。
 
  ●
 そこの家の書生、この書生は何代も代を変へても不思議なものを着て、庭掃除や菜園の肥汲みや子守をしてゐるのであるが、托鉢坊主の緇衣のやうでもあるし、裁判官のユニホームの如くでもある。つまり平重盛や和気の清麿の着てゐる部類でずつと粗末で色褪せたものをまとつてゐる。あとでこれは岡倉天心時代の美術学校の古着とわかつたが、その書生が或る日紙切れをとゞけて来たのである。「畑の菜を鶏が食ひ荒して困るから餌を十分にやつてもらひたい云々」とかいてある。それでは小屋に金網でも作らうといふことにして、その書生氏へはよいついでと思ひ、かねがねウンコまじりの水を絶えず道に流して日に幾度の出入りに子供が衣服を泥まみれにするので、水の処置について注意をした。すると又折かへしに紙片が持参された。「道路に用水を流すのを禁ずる規則はなし、養鶏の処分と水の使用とを交替は出来ぬ」 腹が立つだけ損なので重盛氏には何にもいはずに帰してしまつた。
  ●
 ちなみに、同書が出版された1938年(昭和13)には、川村家はどこかへ引っ越したあとで、その跡地は細分化されまったく新しい住宅が建ち並んでいる。でも、少なくとも『落合町誌』が出版された1932年(昭和7)まで、川村東陽は町会議員をつとめ下落合622番地に住んでいたようだ。
 曾宮一念は岸田劉生Click!とは異なり、下町Click!育ちにしてはめずらしく穏和で大人しく、ガマン強い性格だったから、そのままジッと黙って耐えていたようだけれど、わたしがこんなことをされたら間違いなくキレて、効果的な報復をあれこれ考えるだろう。もっとも、のちに曾宮はその著作でエピソードを公にしているわけだから、わかる人が読めばすぐに誰か特定することができる、この大人げない日本画家(落合町会議員)へ「筆誅」を加えている・・・と言えないこともないのだけれど。
 
 川村家の親族のみなさんが、目白・落合界隈にいまだお住まいかどうかまでは知らないが・・・、
 「曾宮の言い分は一方的で、思いっきり間違ってるんでござ~ますの。なにしろあ~た、わたくしどもで可愛がってたニャンコちゃんたちに、あのお方ったら引っ越してらして早々、いきなり石をぶつけたんでござ~ますのよ! あちらの青柳ヶ原にお住まいで、佐伯様のお隣りにいらっしゃる、酒井億尋様の朝子奥様がかわいがってらしたニャンコにも、まあ、石を投げた※というじゃござ~ませんの。もう、そのような野蛮人、いっさい信用がおけません! そればかりではござ~ませんの、庭木や花壇のいい肥料になりますのに、ニャンコがきちんと埋めたウンコを掘り返しては、わたくしどもの庭へこれ見よがしに放りこんだり、まあ、お聞きあそばせ、宅の菜園にまで入りこんで、うちのニャンコちゃんたちの大事なシッポの毛をむしっては絵筆にしてるんでござ~ますもの。もうわたくし、信じられませんわ! 宅の穏健で沈着な主人などもさすがに怒りまして、美校のはるか後輩なのにけしからん輩だ、こうなったら撃チカタ始メをぶちかます、ウンコ戦争じゃ! 杉野! ♪杉野は何処~杉野は居ずや~などと、朝から嬉しそうに唄っておりますの。いえ、いま宅におる書生が、たまたま杉野と申すのでござ~ます。もうわたくし、なにがなにやら、ここはほんとうに東京の山手でござ~ましょうかしら!?」
 ・・・というような事情があれば、70年ぶりの異論・反論コメントをお待ちします。
中村彝Click!の後援者のひとりだった酒井億尋Click!の夫人、朝子が可愛がっていたネコへ、曾宮一念が石をぶつけたのは事実だ。のちに、曾宮と朝子夫人は親しくなり、曾宮アトリエへ作品を観に夫妻そろって訪問したり、鎌倉で夫人が死去するまで曾宮は彼女と文通をつづけることになる。

■写真上:1935年(昭和10)前後まで、日本画家・川村東陽邸(右手)が建っていたあたり。正面の聖母大学テニスコートは、森田亀之助Click!や里見勝蔵Click!が住んでいた下落合630番地界隈。
■写真中上:左は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる、西北側の川村邸と南東側の曾宮邸の位置関係。住民名が「東郷」と記載されており、同地図にしてはめずらしい採取ミスだ。右は、1938年(昭和13)に出版された曾宮一念『いはの群』(座右寶刊行会)。
■写真中下:左は昭和初期のころ庭先に立つ曾宮一念で、右は1932年(昭和7)に町会議員だったころの川村東陽。川村は、竹田助雄Click!の『落合新聞』Click!にさきがけること、1928年(昭和3)9月から『落合町報』という情報紙を発行し、無償で町内に配布していたことは注目にあたいする。
■写真下:左は、1938年(昭和13)に『いはの群』の挿画用にスケッチされた曾宮一念『ぐろきしにあ』。右は、制作年が不詳の川村東陽の軸画『桜散画賛』(部分)。