有岡一郎というと、戦後の児童文学や小説の挿絵画家としての活躍や、戦時中は従軍画家として『ジャワ沖海戦』を描いたことでも知られている。このサイトでも、引用文の中で過去に一度登場している。金山平三Click!が井上哲学堂Click!のグラウンドで審判をつとめ、頻繁に試合を行っていたらしい、下落合に住む画家仲間で結成された野球チームClick!のメンバーとしてだ。
 冒頭の作品は、1926年(大正15)に制作された有岡一郎の『初秋郊外』という作品で、同年に開催された帝展に入選している。このとき、有岡は下落合800番地に住んでいた。またしても、薬王院の森(新墓地)西側、佐伯祐三Click!が『下落合風景』の中で「墓のある風景」Click!を描いたすぐ右背後の敷地、“下落合800番地”の登場だ。関東大震災の前日、1923年(大正12)8月31日から鈴木良三Click!が引っ越してきて暮らし、震災後の1週間は中村彝Click!を林泉園から避難Click!させ、やはり震災後には鶴田吾郎Click!が軒並びにアトリエClick!を建てて目白通り沿いから移り住み、ほとんど同時期には有岡一郎も住んでいた。800番地界隈は、まさに薬王院アトリエ村だ。
 そして、この絵には強いテジャビュ(既視感)をおぼえる。これと、ほぼ同じ構図のソックリな作品を、すでにここでもご紹介していた。松下春雄Click!が描く『下落合風景』Click!の一作『赤い屋根の家』Click!(1926年頃)だ。同じ帝展派の有岡と松下は、下落合に同時期に住んでいたという繋がりばかりでなく、おそらく画家同士として顔馴染みだったろう。この作品は、松下と連れだって近接した位置にイーゼルを据え、ほぼ同一の風景を描いた公算がきわめて高い。有岡と松下とのイーゼルは、建物の煙突の角度からほんの10mと離れていなかったように思われる。
 
 松下の『赤い屋根の家』では、建物も前庭も茫洋としたイメージしかつかめなかったけれど、有岡の『初秋近郊』からはかなり具体的な風景の様子を把握できる。大きな西洋館の前庭には、照明塔らしい設備のあるそれほど大きくなさそうな池があり、手前の芝庭と思われるスペースつづきで、池には小さな石橋が渡してあるようだ。画面の左手には、なにやら庭園に置かれた洋風の石造モニュメントらしきものが描かれており、テーブル上には花が植えられているように見える。このユニークな形状をしたモニュメントも、実はすでに同様のものが当サイトで登場Click!していたのだ。屋敷の前には低い樹木の植えこみが連なり、建物のどうやら2階以上の窓が見えているようだ。この大きな建築は、松下が描いた『赤い屋根の家』とほぼデザインが一致している。
 有岡の『初秋郊外』を見て、はっきりと意識される描画ポイントは、やはり下落合の西坂にある徳川邸Click!だ。松下春雄は、徳川家の男爵夫人とは顔馴染みで親しかったものか、徳川家が公開していたボタン庭「静観園」Click!ではなく、さらに奧へと入り庭園東側のバラ園を描いた、『下落合徳川男爵別邸』(1926年)と『徳川別邸内』(同年)の2作を水彩で残している。この時期、正面に描かれている徳川邸は大正期の旧邸であり、バラ園は画面の右手枠外に位置している。また、当時のボタンで有名な「静観園」Click!は、建物の背後、西坂筋にあった車廻しから現在の聖母坂(もちろん当時は存在しない)が通う斜面にかけて、東西に長く設けられていた。現在の徳川様は、邸内を描いた松下春雄をご存じなかったので、おそらく早逝してしまった松下とはほんの短期間の交流だったのだろう。松下が連れてきたと思われる有岡一郎も、おそらく記憶されていないと思われる。
 
 1936年(昭和11)と1947年(昭和22)の空中写真を比較すると、徳川邸がちょうど屋敷1軒分ほど南へ移動していることはすでに書いた。この移動は、屋敷の背後にあった「静観園」の敷地を宅地として開発しているからで、これにより「静観園」は東側の斜面へ南北に設置されることになった。おそらく、昭和10年代の前半に行われたとみられる新邸の建設だが、1947年(昭和22)の鮮明な空中写真を見ると、建物の意匠が有岡による具象度の高い『初秋郊外』の西洋館によく似ているのがわかる。旧邸のデザインに似せて新邸を建設したものか、あるいは旧邸をやや南へ移築して一部増築などの手を加えてリニューアルしているのか、徳川様へうかがいそびれている。
 1926年(大正15)のおそらく9月下旬ごろ、松下春雄は有岡一郎をともなって西坂の徳川邸を訪れた。初夏のころ、バラ園を描いていた松下はすぐに南のテラスへと通され、徳川夫人から前回と同様にポットで紅茶かコーヒーをふるまわれただろう。よく晴れた庭では、まだどこからかセミの声が聞こえている。ふたりは、バラ園とは反対に庭園の西側へイーゼルを据えて、徳川邸の母屋と前庭をモチーフに描きはじめた。画家たちの左手(西側)には、すぐに西坂の絶壁が迫っており、ときどき傾斜のきつい坂道を歩く人々が立てる下駄の音や会話が聞こえてくる。
 
 ふたりは、ときどき手を休めると、どんな会話を交わしていたのだろうか? 松下は絵具が付着した指を布でふきながら、「最近、オレの真似をして、下落合風景を毎日描いてるヤツがいるんですよ」と、先輩の有岡に話しかけなかっただろうか。「なんでも仏蘭西から帰朝したばかりで、おととい文化村の北側で見かけたんです」、「彼、妙なところに画架を立ててたな。なんにもない、ただのありふれた原っぱ。なにをモティフにしてるのか、おかしなClick!なんです」・・・。

■写真上:1926年(大正15)の初秋に制作された、帝展出品用の有岡一郎『初秋郊外』。
■写真中上:左は、1926年(大正15)ごろ徳川邸の旧邸と庭先を描いたと思われる松下春雄『赤い屋根の家』。右は、制作年不詳の有岡一郎『初夏の山里』。
■写真中下:1936年(昭和11)(左)と、1947年(昭和22)(右)の空中写真にみる西坂の徳川邸。
■写真下:左は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」より。右は、西坂の現状。