佐伯祐三Click!が、大阪府立北野中学校Click!の在学中に主将をつとめた野球部について資料を見ていたら、頭がこんがらがりそうになった。明治の末から大正中期ぐらいにかけ、関西の中学野球界は「佐伯」選手だらけなのだ。しかも、北野中学にかかわりの深いチーム、あるいは北野中学自体にも複数の「佐伯」という名前を見つけると、「またか・・・」と思う。近畿地方には、特別に「佐伯」という姓が多いのだろうか?
 まず、現在でも広く知られている有名な「佐伯」選手に、北野中学のライバル校だった市岡中学から早稲田大学へと進み、当時の早慶戦では花形選手のひとりになっていた佐伯達夫がいる。この早稲田大学のスター佐伯選手(商科)の人気がとても高かったせいで、深沢省三Click!は『野球界』を読んでいて北野中学の同姓だった「佐伯祐三」の名前が、ことさら目にとまり印象に残った可能性を否定できない。佐伯達夫は戦後、日本高等学校野球連盟の会長までつとめることになる人物だ。彼はのちに、北野中学の佐伯祐三も参加している「三高」の野球部が主催した、「御大礼奉祝記念中等学校連合」の野球大会Click!について、京都府高等学校野球連盟が1967年(昭和42)に出版した『京都高校野球史』の中で、次のように記述している。
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 当時、京都では第三高等学校野球部主催で毎年十一月三日(明治時代の天長節)前後三、四日間、西日本中等学校野球大会を開催していたのであります。中等学校野球大会といっても、今日の大会のようにトーナメント式で最後の栄冠を争うのではなく、ただ参加チームを集めて数組の対抗試合を行なったもので、勝ったら記念に銀製のメダルを頂いたことを記憶しております。/その当時、関西での野球大会といえばこれが唯一のものでありまして、名古屋の強チーム愛知一中や四国の松山中学等の参加もあり、なかなか賑わったもので、私どもにはあこがれの大会でありました。
                                  (佐伯達夫「野球史の刊行を祝う」より)
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 佐伯祐三が北野中学へ入学する前、佐伯達夫は市岡中学をとうに卒業していたので、ふたりが顔を合わせたことはないだろう。でも、佐伯祐三は早稲田で活躍をつづける佐伯選手のことを、よく知っていたに違いない。佐伯達夫は、新聞や雑誌でも頻繁に紹介される有名選手だった。
 また、佐伯達夫は1915年(大正4)に「全国中等学校野球大会」(現・全国高等学校野球大会)が誕生Click!するにあたり、朝日新聞社の社主・村山龍平へ強く働きかけた関西野球人のひとりでもあった。東京都高等学校野球連盟が1988年(昭和63)に出版した、『白球譜-東京都高校野球のあゆみ-』から引用してみよう。
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 前記選手権大会史、柴崎八郎の「大会誕生の周辺」によると、大正3年から4年にかけて少なくとも、全国中等野球大会(ママ)を望む三つの線が村山龍平社長のところへ持ちこまれている。/一つは、中沢、福井両氏からの前出の線。もう一つのルートは、新設の豊中グラウンドを有効に使う方法を頭にえがいた箕生電軌の経営係、吉岡重三郎が、その職業的立場から持ち込んだもの。/さらに、直接、朝日新聞社へ「全国的な中等野球大会」を提案した彼らにヒントを与え協力をした佐伯達夫ら関西野球人や、全国各地の野球を愛する人たちの協力もあって、ついに大会が誕生することになったのである。 (同書より)
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 佐伯祐三が北野中学野球部で活躍した前後、最大のライバル校だった市岡中学の卒業生であり、すでに有名選手となっていた佐伯達夫のほかに、京都の平安中学にも佐伯選手がおり、また佐伯祐三が卒業した直後、北野中学にも佐伯選手がつづいて登場してくる。明治末から大正半ばにかけ、関西中学野球の強豪校には、絶えずどこかに「佐伯選手」が存在していたことになる。当時の野球好きならば、「佐伯」という姓の野球選手は非常に強く印象に残ったにちがいない。
 全国中等学校野球大会は、第1回大会が大阪の豊中球場で開かれているが、1924年(大正13)に大会の専用野球場として兵庫県西宮市に甲子園球場が建設されると、第10回大会より同球場で毎年開催されるようになった。
 
 
 佐伯祐三が、甲子園球場で同大会を観戦する機会は、生涯にたった一度しかめぐってこなかった。1923年(大正12)秋からの第1次滞仏より帰国した、1926年(大正15)8月の第12回大会のみだが、佐伯が夏に実家へ帰省していたとすれば、観戦しに出かけた可能性が非常に高い。

■写真上:第1回全国中等学校野球大会が開かれた、1915年(大正4)の大阪・豊中球場。
■写真中上:1915年(大正4)に第三高等学校(現・京都大学)の野球部が主催し、北野中学の佐伯祐三が京都五中と対戦した、1916年(大正5)ごろ撮影の「三高グラウンド」。
■写真中下:左は、1916年(大正5)に発行された『野球界』1月号の巻頭グラビアを飾った早大の佐伯達夫内野手。右は、1915年(大正4)発行の『野球界』12月号に掲載された、京都大学が“勧進元”の西日本「関西諸学校野球番付」。佐伯祐三のいる北野中学は、西の前頭十五枚目だ。
■写真下:1915年(大正4)に豊中球場で行なわれた第1回全国中等学校野球大会の様子で、優勝したのは京都第二中学校だった。下右の写真で円陣を組むのが京都二中チーム。