小島善太郎Click!は、作品の出来が気に入らないと、そのまま写生現場へキャンバスを打ち棄てていったことはご紹介Click!した。明治末の戸山ヶ原でも、のちのパリ郊外のクラマールでもそうだったので、おそらく下落合でも同じことをしたのだろう。1968年(昭和43)に出版された『若き日の自画像』(雪華社)には、風景モチーフを求めて下落合を散策する小島の姿が記録されているが、それら作品の描画ポイントがどこなのか、あるいは現存する作品がどこの情景なのか、ほとんどはっきりしない。また、たとえば「落合風景」というようなタイトルもいっさい残されていないので、現存する作品と具体的な写生場所との照合も困難な状況Click!だ。
 再び同書から、当時の目白崖線に拡がる下落合の風景を引用してみよう。
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 写生用の鞄を考案するとそれから写生に出かけるようになった。/丘には茂った常磐木の間から灰色の幹を出した落葉樹が、新芽を輝かしている。僕は田圃のあぜを若草を踏みながら歩いた。丘を登り、畠を越し、林に這入った。小枝に群る若芽が脚をとめさせうっとりして画も描かずこの春の幸福感に祈りたい気がした。自由というものが。(ママ) 小僧の身分から開放(ママ)されたことが、親の元で暮せることが。そして描こうと思えば許されているこうしたことが。
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 おそらく、小島が小僧時代を脱出したあと、1910~11年(明治43~44)ごろの光景ではないかと思われる。いまでは、ほとんど誰も見たことのない下落合風景なのだが、明治末の丘上にはすでに、将来の住宅地開発を予感したかのように、主要な道筋にはニセアカシアの並木などが植えられはじめていた。でも、この時代の下落合は、東京郊外の新興住宅地というにはほど遠く、ところどころに華族屋敷やおカネ持ちの別荘が散在する、田園地帯と表現したほうが的確だろう。
 小島の描写から、はっきりと出かけた場所や描画ポイントを特定できる記述もある。大久保の中村覚邸へ書生として入ったのち、太平洋画会研究所の帰り道の様子だから、おそらく大正初期の情景だろう。さまざまな悩みを抱えて、彼はキリスト教会を訪ねている。
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 九尺道路を北に四、五丁の突当りに煉瓦造りの変電所が在り、闇の中に只一つ窓から燈火を洩らしてジーンと云う底唸りを響かせていた。東に一丁。寺の森脇を曲って間もなく登り坂に出る。坂の左は畠。右には大欅が数本並木となって下に杉森が続き、片側を闇で包んでいる。坂を登り切る頃、寺内の方で、犬の吠える声が聞こえて来た。やがて人家の中に入り、三丁余り行くと、北側にささやかな基督教の会堂が在った。自分は其処に向かって行った。
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 書かれている「変電所」とは、1913年(大正2)に建設されたばかりの東京電燈・谷村線の目白変電所Click!だと思われ、戸山ヶ原の北側あたりで逡巡していた小島は、道筋を北へとたどって下落合にできたばかりのキリスト教会をめざしている。そのあと、「東に一丁」は「西に一丁」の誤記だと思われるが、寺はほぼ間違いなく薬王院だろう。「寺の森脇」の坂道とは、まだほとんど建物が見えず目白崖線に通うもっとも古い坂道のひとつ七曲坂Click!であり、また「右には大欅が数本並木となって下に杉森が続き」とあるのは、七曲坂の右手にある権兵衛山Click!(大倉山)の情景だ。大正の最初期、この権兵衛山の東側にある御留山Click!には、竣工したばかりの相馬邸Click!がそびえていただろう。そして、300mほど北上したところにある「基督教の会堂」とは、1912年(明治45)に開設されたばかりの落合福音教会(のち目白福音教会Click!)の建物にちがいない。
 大正の最初期、下落合に建っていた教会は、ヴォーリズが設計した宣教師館(メーヤー館)Click!の建物を含む、落合福音教会しか存在していない。小島は、この教会内に設置されていた聖書を学ぶ「学院」(のちの日本聖書神学校か)の建物を写生しており、その壁面がクリーム色で塗られていたことを記録している。すなわち、宣教師館(メーヤー館)の北側に建っていた、おそらくヴォーリズの同時設計とみられる旧・英語学校(のち牧師の宿泊施設としても使用)はクリームの外壁だったのであり、メーヤー館の外壁も当初は同色で塗られていた可能性が高い。中村彝Click!が、1919年(大正8)に『目白の冬』Click!で描いたメーヤー館の右手、画面の隅にチラリと見えている建物だ。
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 学院の作は、クリーム色の洋館をバックに一本の桐の木があって、その桐の木の下では牧師らしい西洋人の夫婦が、庭先に持ち出したターブルを挟んで茶を喫んでいた。左手前にはイチジクの木が葉を擡げている。その上を初夏の陽が全面に落ちてクリームと緑と白の軽快な色調がわたしを酔わせ、毎日同じ時刻を計って描き続けて行った。(中略) この学院はアメリカ系のミッションで学校、宿舎、住宅が散在し、中に西洋人の宿舎があって、それを描いていた。わたしの背後にはこれらの人々が時々立ち止まっては眺めて行く。
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 小島が描きとめた「西洋人の夫婦」こそが、宣教師館に住みはじめたばかりのメーヤー夫妻Click!だったろう。この作品が、あるいは作品画像が戦災をくぐり抜けているかどうかは不明だけれど、もし現存していたら、見れば描画ポイントがどこかはすぐにわかる。中村彝に先立つこと6~7年前、小島善太郎が同教会の風景画を制作していたとは驚きだ。
 また、イーゼルを立てた小島の背後には、意外な人たちが姿を見せる。少し長いが引用しよう。
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 或る時、背後から話しかけた人の声に振り向くと、二十七、八の度の強い眼鏡をかけた痩せぎすな婦人が画面を覗きこむようにしている。「・・・・・・どちらでご勉強でいらっしゃるの?」 神経質らしい上流の人に見る気質を感じた。わたしが逆にたずねると、/「学習院の女学部で洋画を教えられ、その後高等科の時、黒田清輝先生に就いて学んでおりましたので・・・・・・」/「それで、いまは?」 好奇心が湧いてこう訊ねてみた。/「いまは事情がございまして、この学院におりますの・・・・・・」/「・・・・・・失礼ですが、お名前は?」 この質問は失言したと思った。/「徳川でございますの」と彼女は案外率直に答えた。/「元伯爵の?」/「はァ・・・・・・」 そう答えると不安気に背後をかえりみ、右手を頤に当てた。/「・・・・・・根が好きなものですから・・・・・・ついお邪魔も省りみず・・・・・・御無礼を申し上げました」/彼女は離れて行った。
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 ここに登場している徳川家の女性は、当時から下落合の西坂に邸をかまえていた大垣徳川家Click!でも、のちに目白町の戸田邸Click!跡へ引っ越してくる尾張徳川家Click!でもない。不祥事から伯爵の爵位を返上している清水徳川家、徳川篤守の娘ないしは妹だろう。(小島は妹と書いているが、年齢が少し離れすぎている) 明治の中期まで、清水徳川家は山手線をはさんで下落合とは反対側(東側)、早稲田のバッケ上=甘泉園(現・甘泉園公園)に邸をかまえていたが、爵位の返上とともに、近くの目白・下落合地域へ引っ越して住んでいた可能性がきわめて高い。

■写真上:目白崖線の中腹あたりから、眼下に拡がる神田上水あるいは妙正寺川沿いの田畑を描いたように見える、1917年(大正6)制作の小島善太郎『木戸』。
■写真中上:左は、1918年(大正7)の早稲田1/10,000地形図にみる、1913年(大正2)に田島橋南詰めに建設された東京電燈目白変電所。右は、1925年(大正14)改訂版の同図にみる、1912年(明治45)に建設された落合福音教会(のち目白福音教会)の建物。
■写真中下:左は、千葉へ移転後の宣教師館(メーヤー館)の現状。右は、小島が大正初期に写生していたと思われる、メーヤー館の北側に建っていた旧・英語学校(元・聖書学院)の建物。
■写真下:左は、パリ近郊のクラマールにあった小島善太郎アトリエで、1924年(大正13)に撮影された記念写真。ここでもお馴染みの顔ぶれが見え、後列右から前田寛治、里見勝蔵、中列右から木下勝治郎Click!、小島善太郎、林龍作、川瀬もと子Click!。右は、1914年(大正3)に制作された小島善太郎『やわらかき光』。おそらく、書生をしていた大久保の中村覚邸を描いたとみられる。