1947年(昭和22)3月に四谷区と牛込区、そして淀橋区が合体して成立した新宿区が、スタートから7年めに発行した「新宿区勢要覧/昭和29年版」を、ある方からお譲りいただいた。空襲による焼け跡がようやく目立たなくなり、新宿の繁華街に活気がもどってきたころの区勢要覧だ。すでに発行から55年の歳月が流れて黄ばんだ表紙には、北は目白駅~哲学堂Click!、南は絵画館~神宮球場まで、新宿区全体のイラストマップが描かれている。
 同要覧には、さまざまなデータや施設・名所案内が掲載されているのだけれど、空襲によって新宿区エリアにある市街地の約90%が焦土と化した敗戦から9年、筆者も復興しつつある街並みを眺めて感慨がひとしおなのか、その出だしはちょっと講談めいた調子で感傷的になっている。
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 いまは昔、お江戸東京は、東海道、中仙道、日光街道、甲州街道などから、政治、文化の交流が、飛脚、馬、かごなどによつて行われ、新宿は、その甲州街道の、いまでいう始発駅であつた。/関東奉行内藤修理亮清成が、家康からこの土地を賜り、内藤氏がこの街道取締りの任にあたつたので、今の追分附近を「内藤新宿」と呼んでいた。/それから幾星霜-----/飛脚や、飯盛女のさんざめいた宿場の容ぼうは転々変化して、今の大新宿としていん賑を極めるようになつた。/(中略)人口33万有余、面積18平方粁強で、西え西え(ママ)と移行する東京の都心がこの「新宿」であるといつても過言ではあるまい。(同要覧「新宿というところ」より)
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 文中には33万有余と書かれているけれど、同年の新宿区の正式人口は319,977人。2008年現在の新宿区の人口は310,206人だから、当時のほうが住民は1万人弱ほど多かったことになる。新宿の周辺が繁華街化、またはオフィス街化するにしたがって、人口は少しずつ減ってきているのだろう。また、当時区内に在住する外国人の数は3,214人、2008年現在では31,856人と10倍に増え、都内ではもっとも外国人の居住が多い区となっている。区内人口は、新宿区が成立した当初は16万人弱だったので、7年間でおよそ倍増している。この急激な人口増加は、下町Click!から山手へと多くの住民が移動した、1923年(大正12)の関東大震災Click!以来の膨張だったろう。
 
 1954年(昭和29)当時における新宿駅の1日平均利用客は70万人余と、東京駅と大阪駅に次いで全国第3位となっている。文中では、「西え西え」と都心が移動するのを早くも予言しているけれど、2008年現在の新宿駅の1日平均乗降客は346万人(西武新宿線・西武新宿駅を除く)と、当時の5倍にふくれあがり、東京駅や大阪駅を抜き世界でいちばん利用客が多い駅として、ギネスブックに登録された記憶もまだ新しい。区内の人口はあまり変化していないのに、新宿エリアが東京の巨大なターミナル、あるいはハブとしての役割りを果たしているのがよくわかる数字だ。
 この「新宿区勢要覧/昭和29年版」が面白いのは、さまざまなデータや区内の施設・名所を紹介している裏面が、今日でもよく見られる大判の地図ではなく、当時の新宿区全体を撮影した空中写真を印刷している点だ。同年2月22日に撮影された空中写真は、ちょうど新宿区がスタートした1947年(昭和22)に米軍のB29が爆撃効果測定用として撮影した焼け跡だらけの写真と比較すると、街並みが急速に復興している様子がうかがえる。「要覧」が発行された翌年、1955年(昭和30)に出版される『新宿区史』には、米機によって撮影された焼け跡だらけの空中写真が収録されているところをみると、おそらく当時それを見た区の担当者たちが多大なショックを受けたのだろう。米軍の空中写真を、戦後の「ゼロからの出発点」として位置づけ、定期的に発行される「要覧」には復興しつつある新宿区の空中写真を、次々と撮りつづけていたものと思われる。


 落合地域を眺めてみると、ほとんど空襲を受けなかった下落合西部の芸術村=アビラ村Click!(現・中井2丁目界隈)や西落合は別にして、ところどころに空き地がまだ散見されるものの、上落合と下落合ともに住宅街がほぼ復活しているのがわかる。真冬に撮影された空中写真なので、樹木の葉が落ちているぶん市街地の様子がよく見えている。相馬邸Click!跡の御留山Click!は、「おとめ山公園」として保存される10年前の姿だが、南側の谷戸部分と弁天池の周辺がなんらかの開発で丸裸となっている。いまだ東邦生命の所有地となっていたころの姿で、現在の弁天池は「精魚場」Click!としてコイかフナ、ニジマスなどの養殖場に使われていたものだろうか。
 薬王院の北側の森は、伐られたままで相変わらず大きな空き地のように見えるが、激しい空襲を受けた聖母病院周辺の第三文化村や府営住宅、また諏訪谷Click!から北側の住宅街は、そこここに空き地が目立つものの家々が建ちはじめているのがわかる。また、開通して間もない山手通りClick!(環6)によって東西に分断された、目白文化村Click!の第一・第二・第四文化村の焼け跡にも、新たな住宅が建設されているのが見える。そして、落合地域でもっとも顕著なのが上落合の復興だ。上落合地域は、米軍に川沿いに展開する戸塚町つながりの工場街と誤認されたものか、ほぼ全域が激しい爆撃で焼け野原となった。1954年(昭和29)のこの時点で、すでに戦前と同じぐらいの密度で住宅街が復旧しており、「バッケが原」Click!と呼ばれた妙正寺川沿いの草原にも、宅地化の波が押し寄せているのが見てとれる。

 
 新宿区の全体を見わたしてみると、もっとも目立つのが旧・陸軍の広大な軍事施設があった戸山ヶ原Click!の消滅だ。戦後の住宅不足を解消するために、戸山ヶ原には次々と団地や復興住宅が建てられつづけ、この「要覧」が発行された時点では、ほぼ全域が家々で埋め尽くされている。でも、空中写真をよく見ると、近衛騎兵連隊の兵舎Click!をはじめ、射撃場Click!、第一衛戍病院、軍医学校Click!、陸軍幼年学校など旧軍のコンクリート建築(一部廃墟)や施設跡が戦前のままの姿で残っており、いまだ戦争や軍都・新宿の記憶が生々しかった時代の様子を写しとっている。

■写真上:1954年(昭和29)3月に発行された、「新宿区勢要覧/昭和29年版」表紙と表4。
■写真中上:左は、1954年(昭和29)の高田馬場駅ガード。1949年(昭和24)に駅前へ都電が乗り入れ、学生街の賑やかさを増すころ。右は、飯田橋駅の改札近くから見た同年の神楽坂。
■写真中下:上は1947年(昭和22)にB29が、下は1954年(昭和29)に区が撮影した落合地域。
■写真下:上は、1954年(昭和29)の戸山ヶ原一帯の様子。下左は、冬はスキーが流行った1937年(昭和12)の戸山ヶ原の情景。下右は、1956年(昭和31)に完成した西戸山団地。