中村彝Click!の絵に、『雪の朝』と題する作品がある。中村春二Click!の成蹊学園Click!が出版していた、学園機関誌『母と子』(第9巻第2号/編集長・厚見純明)の表紙にも採用された絵(パステル画)だ。以前、1918年(大正7)の暮れから、1920年(大正9)の冬にかけて描かれたとみられる、一連の雪景色作品の制作日時を推定する記事Click!を書いた。
 その記事でも触れたけれど、彝が一連のアトリエの「庭」シリーズを描いたのは1918年(大正7)のことであり、南側の林泉園Click!(谷戸)に面した庭を描いている。ところが、『雪の朝』は樹木の向こうに大きめな建物が描かれており、明らかに南の庭からの眺めではない。さて、彝はアトリエからどちらの方角を向いて描いているのだろうか? それを示唆する記述が、実は『芸術の無限感』に収録されている。当初は、1919年(大正8)の2月14日書簡とされていたが、彝が「暮で色々お忙しいでせうが」と表現していたり、同年暮れに開かれた草土社Click!展覧会の様子が書かれていることから、のちに12月14日の日付の誤読が判明した、柏崎の洲崎義郎Click!あての手紙だ。
 『雪の朝』の遠景に描かれた建物の風情は、彝アトリエの周辺に古くから住んでいる地元の方なら、おそらく瞬時にピンとくるだろう。戦前から戦後の空中写真を見馴れていたわたしも、すぐに彝がなにを描いているのかがわかった。彝は、いつもの林泉園に面した南側の庭からではなく、アトリエ北側の裏庭か、あるいはアトリエの敷地を少し出たやや北寄りのあたりにイーゼルを据え、あるいはスケッチブックを手持ちして、樹木の間から見えている大きめな建物をとらえている。すなわち、彝アトリエから30~40mほど北側に建っていた、下落合462番地あたりの“もとゆい工場”を描いているのだ。彝が描く作品で、もとゆい工場を目にしたのは『雪の朝』が初めてのケースだ。屋根に換気用と思われる小屋根が設けられた、いかにも当時の中小工場らしい風情をしている。
 この“もとゆい工場”は「一吉元結製造工場」のことで、大正初期から中期の地図類をベースに考えると、当初は中村彝アトリエの北側やや東寄りに建っていたと思われ、工場の西側に拡がる空き地一帯が干し場として使われたスペースだったようだ。干し場の北側には、当初の職人長屋と思われる東西に細長い長屋状の建物が、当時の地図類に見えている。また、工場とは別に事務所(販売店兼オフィスだったかもしれない)が目白福音教会の南側、七曲坂筋の道路に近い位置に設けられていた。彝の死後、おそらく1925年(大正14)ごろに彝アトリエ西側の接道(当初は一吉元結製造の敷地に突き当たって行き止まりの袋小路)と、目白通りとを結ぶ南北道が貫通し、一吉元結製造は工場の敷地と、干し場の敷地とが東西に分断されてしまったと思われる。
 南北に道路が拓かれるのと同時だろうか、同社は道路の東側の土地を宅地として処分したのかもしれず、工場や従業員施設などを空いている干し場の南側へ、つまり道路の西側=下落合565番地界隈へ移転したと思われる。おそらく、大正末ごろから元結の市場ニーズは急減したと思われ、工場など施設の規模を縮小する必要にも迫られていたのかもしれない。その際、工場に隣接して中庭に井戸のある、南北に細長い「職人長屋」も新たに建設されているようだ。幸か不幸か、一吉元結工場は事業規模の縮小と思われる移転が幸いして、1945年(昭和20)5月25日の山手空襲でもかろうじて焼け残り、戦後まで事業をつづけることができたため、多くの近隣の方々へ強い印象を残すことになった。同工場のこの時期における動向は、また詳しいことが判明したら改めてご紹介したい。
 
 
 彝は、目白福音教会Click!の宣教師館Click!(メーヤー館)を描いた『目白の冬』Click!(1920年)へ、この“もとゆい工場”で生産された元結の“干し場”を、前景に取り入れている。換言すれば、彝は『目白の冬』を制作する際、一吉元結製造工場の干し場へかなり入りこんでメーヤー館に近づき、イーゼルを立てていることになる。『芸術の無限感』(1926年)に収録された、1919年(大正8)12月14日(誤掲載2月14日)の洲崎義郎あて書簡には、「今は毎日裏の『もとゆひ工場』を十二号に描いて居ます」と書かれている。すなわち、『雪の朝』とともに“もとゆい工場”をモチーフにした一連の作品は、同年の12月中に描かれた公算が高い。
 ただし、彝が洲崎あての手紙で書いているのは12号キャンバスであり、この日付以前の日が晴れていたことを示唆する表現が見られるので、一吉元結工場を描いた油絵作品がパステル画らしい『雪の朝』とは別に、存在する可能性が非常に高い。『雪の朝』を12号の油絵であるとするには、キャンバスのフォームや描写の質感(油彩ではない)から無理がありそうだ。もっとも、成蹊学園の『母と子』編集部が作品の中央部をタテに細長く製版して、変形使用している可能性もいちがいには否定できないが・・・。では、1919年(大正8)12月に積雪があった日はいつだろうか?
 東京気象台が記録した、大正期の天候記録をチェックしてみると、まさに12月13日(雪)、14日(雪)、15日(小雨)、16日(雪)と、4日間連続して天候の崩れていることがわかる。このほか、12月28日にも積雪があるが、このとき彝はアトリエに籠もって『雉子の静物(鳥)』(12号)に没頭していたようなので、とりあえず除外したい。つまり、彝が洲崎あてに手紙を書いている12月14日が雪であり、その翌日は小雨、その翌々日がまた雪で、『雪の朝』にみえるように積雪のあと青空が拡がるのは12月17日になってからのことだ。以下、1919年(大正8)暮れの気象記録をまとめてみよう。なお、降水量は雪が溶けたあとの水量数値であり、降雪換算は一般的に×5~10倍の積雪となる。
 12月10日(晴)・・・降水量0mm
 12月11日(晴)・・・降水量0mm
 12月12日(快晴)・・・降水量0mm
 12月13日(雪)・・・降水量7.9mm(積雪量39.5~79mm)
 12月14日(雪)・・・降水量3.8mm(積雪量19~38mm)
 12月15日(小雨)・・・降水量4.2mm
 12月16日(雪)・・・降水量7.6mm(積雪量38~76mm)
 12月17日(晴)・・・降水量0mm
 12月18日(晴)・・・降水量0mm

 
 彝は、12月12日までの晴れた日の午前中に、アトリエの裏庭から12号の「もとゆい工場」を描いていた。ところが、手紙にも書かれているとおり「昨日から急に寒さが烈しくなつて」と、13日から雪模様であることを示唆している。そして、外で写生ができない余暇を利用して、14日に洲崎義郎あての手紙を書いたと思われるのだ。したがって、青空がのぞいている『雪の朝』は12月17日の午前中、ないしはいまだ雪が溶けきらない18日の午前中に制作された可能性がある。
 『雪の朝』はその後、彝から今村繁三Click!とともにパトロンのひとりである、成蹊学園の中村春二へ贈られている。中村春二は、成蹊学園の機関誌『母と子』の編集部へ『雪の朝』を提供し、1923年(大正12)2月5日に発行された同誌の表紙ビジュアルに採用されている。同誌の表紙は3色刷りであり、同誌巻末の「表紙の三色版について」から作品解説を引用してみよう。
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 表紙の三色版は中村彝氏の絵で氏は御承知の通り帝展の審査員でありまして、作品の世間に尊重されて居りますのは御存じの事と思ひます。丁度雪の絵を中村春二先生が秘蔵されて居りました。又この頃中村(活字欠落)氏にはめつたに御描になりませんといふ話です。丁度雪のとき雪の絵であり事情も右の次第ですから特にねがつて表紙にしたわけであります。
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 ちなみに、「中村彝の全貌」展図録(茨城県近代美術館・他/2003年)では、『目白の冬』のメーヤー館を「もとゆい工場」だと誤認し、年譜では1919年(大正8)12月に同作が制作されたと断定されている。でも『目白の冬』は、『芸術の無限感』(初版)をはじめ当時の資料では1920年(大正9)に描かれたと書かれ齟齬が生じている。どこかで、『目白の冬』のメーヤー館を「もとゆい工場」と規定してしまったがため、のちに「1919年制作」というツジツマ合わせが行われていやしないだろうか?
 『芸術の無限感』は彝の身近にいた、そして彝アトリエ周辺の下落合の“現場”に住んでいた画家たちが中心になって編集しているので、メーヤー館Click!が「もとゆい工場」というような、“初歩的”な誤りは犯さなかったにちがいない。この課題は近々、改めて記事にしてみたい。

■写真上:1919年(大正8)の暮れ、積雪があった直後の晴天日の午前中に描かれたと思われる中村彝『雪の朝』。彝の作品では、初めて目にする「もとゆひ工場」=一吉元結製造工場だ。
■写真中上:上左は、1918年(大正7)の早稲田1/10,000地形図で想定する彝アトリエと一吉元結工場の位置関係。同地図には、大きな建物しか採取されていない。上右は、1918年(大正7)の同地図。下は、大正期の後半まで建っていたとみられる旧・一吉元結工場の跡(左)と干し場跡(右)。
■写真中下:上は、1936年(昭和11)の空中写真をベースにした各作品の描画ポイント。一吉元結工場は、すでに干し場の南へ移動している。下左は、戦後の工場周辺を撮影したものだが、工場の屋根上にはもうひとつ小屋根が載っている様子が見てとれる。下右は、大正末まで行き止まりの袋小路だった彝アトリエ西側の接道。正面が大正中期までの干し場、のち工場位置となる。
■写真下:左は、1923年(大正12)2月5日に発行された『母と子』(成蹊学園出版部)の表紙。右は、同誌の巻末に掲載された『雪の朝』に関する解説「表紙の三色版について」。