この絵を初めて観たとき、その据わりの悪さや不自然さに、ちょっと気持ちが悪くなってしまった。戦後すぐの1948年(昭和23)に開かれた、女流画家協会の第2回展に出品され、「婦人文庫賞」を受賞していると思われる佐伯米子Click!の『エリカの花』だ。したがって、制作年は1946~47年(昭和21~22)ごろだと思われる。でも、佐伯米子が住んでいた下落合2丁目661番地、すなわち佐伯アトリエClick!のある母屋の窓辺から、このような風景は見えるはずがない。
 花瓶に活けられたエリカの背後に描かれているのは、諏訪谷Click!西側の青柳ヶ原Click!と呼ばれた丘上に1931年(昭和6)12月に竣工し、1945年(昭和20)5月25日の山手空襲Click!で直撃弾を受けながらも、かろうじて焼け残った聖母病院Click!なのだが、米子はフィンデル本館をほぼ真北から眺めて描いていることになる。その事実に、すぐに気づいたのは聖母病院への入院経験がおありの、「佐伯祐三展-下落合の風景-」展覧会Click!でご一緒した美術家の方だった。当然、「米子さんは、いったいどこで作品を描いてるの?」ということになった。戦後に発行された、1960年(昭和35)の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会/人文社)をベースにすれば、下落合2丁目656番地に建っていた小島邸の庭先、あるいは同邸へと入る路地の奧にイーゼルを立てないと、フィンデル本館をこのような角度で見ることはできない。米子がいた佐伯アトリエから、40mほど東寄りなのだ。
 しかし、『エリカの花』が制作された戦後すぐのころ、少なくとも1947年(昭和22)現在の空中写真を確認しても、描画ポイントとその周辺は一面の焼け野原であり、小さなバラック小屋は散見できるものの、いまだあたりには本格的な住宅など存在していなかった。したがって、同位置に建っていた住宅の窓辺に花瓶を置いて描くなど、まず不可能なことだ。では、逆に1945年(昭和20)5月25日の空襲前に描かれたものだろうか?・・・とも思ったが、それはさらに考えにくい。戦争末期に、花屋が店開きしてエリカの花を売っていたとは考えられず、また空襲警報が頻繁に出る中での悠長な制作など、まずありえない想定だからだ。やはり、描かれたのは戦後であり、目白通りで花屋が営業を再開した、1947年(昭和22)あたりと考えるのが妥当だろう。

 そうなると、『エリカの花』の画面は実景ではなく、現実を超えた米子の意識的な“構成”ということになる。まず、背景となるフィンデル本館を、焼け野原が拡がる真北の位置にイーゼルを据えて描くか、あるいは松葉杖を脇にはさんでスケッチブックに写しとり、それをいったんアトリエに持ち帰ったあと、今度はエリカの花瓶をどこかの窓辺(母屋だと思われる)に置いて描いたのだ。わたしが「気持ちが悪く」なってしまったのは、構図が微妙に斜めなのも原因なのだが、背景の聖母病院と手前の窓辺とでは、光線が一定していないからだと気づく。いや、手前にある窓辺の静物だけを見ても、光線の位置がはっきりしない。しかも、窓のデザインと、窓枠がかたちづくる手前の影とが一致していないのも気がかりだ。この窓は、タテの窓枠が2本あるのだけれど、下の窓枠の影はもっとたくさんありそうだ。いつも、デッサン力が抜群だった佐伯祐三Click!の作品群を観馴れていたせいか、『エリカの花』のような作品を観ると不自然に感じるようになってしまったようだ。
 佐伯米子は、戦後すぐの1946年(昭和21)に、三岸節子Click!や藤川栄子Click!、雑賀文子、桂ユキ子、仲田菊代らとともに女流画家協会を設立しており、当然、仲間の画家たちからシュールレアリズムの影響はかなり受けていただろう。だから、『エリカの花』の表現は米子ならではの、現実を踏みこえた超現実を表現したもの・・・ということになるのかもしれない。
 
 たとえば、佐伯が活躍していたころ、モチーフを窓辺に置いて描くことなど、ほとんど考えられなかっただろう。当然、外光は静物の背後からくるので、モチーフ全体が黒く陰になってしまい、また色彩も鮮やかさを失ってハッキリしなくなってしまうからだ。でも、『エリカの花』は窓辺から射しこむ光の強さのわりには、エリカや花瓶が陰になってはいない。つまり、“現実”に即して考えれば、光線は手前からも横からも射しこんでいる・・・ということになる。強いて言えば、ライトをたくさん吊るした撮影スタジオで、モチーフを描いたような風情なのだ。
 濃い緑(当時は邸を囲むようにイチョウClick!の大樹が多かったようだ)に囲まれていた佐伯アトリエは、かろうじて空襲による延焼をまぬがれていた。佐伯米子は、焼け野原が拡がる聖母病院の真北でスケッチをしたか、あるいは写真を撮影してフィンデル本館の姿を自邸へと持ち帰り、ようやく営業を再開した目白通り沿いの花屋からエリカを取り寄せ、母屋のいずれかの窓辺に花瓶を置いて、1948年(昭和23)の女流画家協会展用に『エリカの花』を制作した・・・と思われる。佐伯祐三のアトリエには新たな石炭ストーブも入れられ、当時は彼女のアトリエとなっていた。
 
 米子は画室で、戦前には毎年欠かさず出品していた二科展ではなく、女流画家協会展や二紀会展用に次々と作品を生み出していくことになる。また、毎日新聞社が1960年(昭和35)に主催した第4回現代日本美術展で大衆賞を、また1967年(昭和43)に文部大臣奨励賞を受賞する前後から、日本橋三越で個展を開くことが多くなっていった。

■写真上:1947年(昭和22)ごろに制作されたと思われる、佐伯米子『エリカの花』。
■写真中上:1975年(昭和50)に公園化された直後の、佐伯祐三・米子夫妻の母屋+アトリエ。
■写真中下:左は、『エリカの花』の背景に描かれた聖母病院フィンデル本館を描画ポイントから。右は、同作が描かれたのと同時期にあたる1947年(昭和22)の空中写真にみる描画ポイント。
■写真下:左は、1971年(昭和46)に制作された『時計台の見える石段』。右は、1972年(昭和47)に描かれた佐伯米子『百花園蓮池』で、同作が絶筆となった。