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しょっちゅう名前を変える洋画家・二瓶等。 [気になる下落合]

二瓶等邸跡.JPG
 下落合に暮らす前後から、頻繁に名前を変更していた洋画家がいた。たとえば、中村彝Click!の弟子でルノアールばりの作品を描き、彝の8号『俊ちゃんの像』(鈴木良三Click!の表現だが、いずれかの相馬俊子像=『少女像』だと思われる)を購入したのは二瓶徳松、1922年(大正11)に光風会へ『真珠』という作品を発表しているのは二瓶經松、鈴木良三が彝アトリエあるいは光風会を通じて知り合ったころは二瓶義観、画家としてもっとも多く使用した名前は二瓶等Click!、戦後に下落合から池袋へ引っ越して「中村彝会」Click!で活動したのちは二瓶等観・・・。
 二瓶徳松と二瓶經松が同一人物であり、二瓶等と二瓶等観が同一人物であろうことは、なんとか想像がつきそうなのだけれど、中村彝の弟子の二瓶徳松と、佐伯祐三がパリで死去するとき身近にいた二瓶等が同一人物だとは気づかれにくい。事実、中村彝の資料には二瓶徳松の名前が出てくるが、二瓶等の名前はあまり出てこない。逆に、佐伯祐三Click!の資料にはパリで一緒だった二瓶等の名は出てくるが、中村彝アトリエClick!の近くに住み東京美術学校へ佐伯と同期入学だった二瓶徳松(經松)の名前は出てこない。もう一度、二瓶等の名前の変化を整理してみよう。
 1917年(大正6)/二瓶徳松・・・前年に北海中学校を卒業、光風会へ『桜草』『静物』
 1918年(大正7)/二瓶徳松・・・東京美術学校予備科へ入学、佐伯祐三と同期(同年退学)
 1919年(大正8)/二瓶徳松・・・東京美術学校予備科へ再入学、佐伯とは卒業年が1年ズレ
 1922年(大正11)/二瓶經松・・・光風会へ『真珠』、このころ『俊ちゃんの像』購入か?
 1923年(大正12)前後/二瓶義観・・・鈴木良三と知り合ったころか?
 1924年(大正13)/二瓶等・・・光風会へ『裸女』、美術学校西洋画科卒業、卒制『裸の女』
 1926年(大正15)/二瓶等・・・「下落合事情明細図」の下落合584番地にアトリエ収録
 昭和初期/二瓶等・・・渡仏のち中国へ渡り満州美術会を結成、下落合アトリエはそのまま
 1945年(昭和20)~/二瓶等観・・・下落合から池袋へ転居
 これだけ見ても5つの名前を名乗っており、非常にややこしくてわかりにくい。この頻繁な変名による混乱は、たとえば親しかった鈴木良三の文章にも表れている。1999年(平成11)に出版された梶山公平・編『芸術無限に生きて-鈴木良三遺稿集-』(木耳社)から引用してみよう。
西洋画科入学者名簿1918.jpg 西洋画科入学者名簿1919.jpg
  
 彼が彝さんを知ったのは美校先輩の曽宮一念氏が彼を連れて彝さんを紹介したのが初めてで、彼のアトリエが出来てから、在学中に彝さんの八号の「俊ちゃんの像」を買ったことから交友は繁くなった。美校を卒業する時は特待生として一番の成績だった。クラスメートは山田新一君や、岡鹿之助君が居たが、岡さんはビリで卒業している。二瓶さんの絵は終始彝さんの影響を受け、ルノアール張りの色調で、すこぶる生真面目な、優等生風の作画を続けた。野口英世博士の肖像なども郵便切手になる程つつましい出来であった。
  
 二瓶等が東京美術学校西洋画科の予備科へ初めて入学したとき、クラスメートには佐伯祐三や山田新一Click!深沢省三Click!などがいたけれど、なんらかの事情で二瓶は同年に入学したばかりの東京美術学校を、予備科のまま辞めてしまっている。あるいは、なにかの事件で授業へ出席できなくなり、在籍を抹消されているのかもしれない。そして、翌年になって改めて予備科へ再入学しているのだ。だから、岡鹿之助は確かに卒業までの5年間、二瓶のクラスメートだったけれど、山田新一は佐伯祐三とともに1年上のクラスとなり、当然、1年早く1923年(大正12)に卒業してしまっていた。このあたり、のちに語った二瓶自身の記憶も混乱していたのかもしれない。
 二瓶等は、1888年(明治21)に北海道の札幌で生まれている。1916年(大正5)に北海中学校(現・北海高校)を卒業するころから、絵画の成績は抜群だったようで、東京美術学校へ入学する前から光風会へ作品を発表するなど、美術界からもかなり注目を集めていた。家が豪商だったせいで、東京美術学校に在学中からすでに、下落合へ大きなアトリエ兼自宅を建設している。
下落合事情明細図二瓶等.jpg
下落合584二瓶等.jpg
 二瓶等のアトリエは下落合584番地にあり、ちょうど中村彝アトリエと曾宮一念アトリエClick!の中間地点にあたる。大塚にアトリエを建てようとしていた二瓶を、下落合に呼び寄せ584番地の土地を斡旋したのは、曾宮一念ケースClick!のときと同様、他ならない中村彝自身だった。ただし、時系列的にみると、曾宮や佐伯のアトリエよりも、二瓶アトリエのほうがかなり早くから建っていた。『芸術の無限感』(岩波書店/1926年)所収の、中村彝が洲崎義郎あてに送った1920年(大正9)7月21日付けの書簡には、すでに二瓶アトリエが存在している様子が記載されている。そして、二瓶アトリエのさらに向こう側へ、すなわち諏訪谷の尾根上へ曾宮一念が土地を借りうけて、自宅兼アトリエを建設しようとしていることが記されている。
  
 彝さんのところを出て、林泉園の谷に沿って行くと、道は左右に分かれ、右へ折れて少し畑の中を左の方に、やはり赤い屋根の二瓶義観(後に等と改めた)さんのアトリエがあった。アトリエは四間と三間半の大きさで、その他に応接室や居間、台所、湯殿、ベランダと、彝さんのところよりはずっと大きく、美校時代に建ててしまったもので、彼の家が金持ちであったことが直ぐ分かる。 (同上)
  
 二瓶アトリエは、彝アトリエや曾宮アトリエよりもかなり大きく、また母屋のほうも豪華だったことがうかがわれる記述だ。この下落合584番地にアトリエ兼自宅が建てられたのは、おそらく曾宮や佐伯が下落合にアトリエを建てて暮らすようになる、数年前だったようだ。畑地が残る細い道をはさんで、二瓶アトリエの北向かいにある下落合575番地には、大正後期まで目白文化村Click!を開発していた箱根土地Click!堤康次郎Click!邸が建っていた。
出前地図192501.jpg 二瓶等「足を拭ふ女」1929.jpg
 二瓶等のアトリエが、渡欧のためか貸しアトリエになっていた1926年(大正15)、このアトリエを借りて下落合へ引っ越したがっていた洋画家がいた。湘南の茅ヶ崎天王山で、療養をつづけていた萬鐵五郎Click!だ。萬は同時期、別荘などの西洋館が数多く建ち並び、洋画がよく売れる大磯Click!で展覧会を開きたがっていたのだが、二瓶アトリエを借り受ける資金づくりを考えていたのかもしれない。下落合へ来たがった、萬鐵五郎の想いについては、また、別の物語。
 余談だけれど、堤康次郎の本妻が住んでいた下落合の「本宅」は、どうやら大正期はおろか、戦後までそのまま下落合を動いてはいない。(もっとも、堤自身はめったに立ち寄らなかったようなのだが) つまり、戦前戦後を通じて堤康次郎は下落合に「本宅」を構えていたことになる。米内光政Click!の隠れ家と絡めて興味深い事実だけれど、それもまた、別の物語。

■写真上:二瓶等のアトリエ兼自宅が建っていた、下落合584番地の現状。
■写真中上:いずれも東京美術学校西洋画科の予備科入学者一覧で、が1918年(大正7)のが1919年(大正8)の名簿の一部。二瓶徳松(等)は二度入学していて、山田新一や佐伯祐三のクラスからは1年遅れてしまい、卒業も1924年(大正13)になってからのことだ。
■写真中下:1926年(大正15)作成の、「下落合事情明細図」にみる二瓶等アトリエ。
■写真下は、1925年(大正14)1月17日に発行された「出前地図」(下落合及長崎部分案内)収録の二瓶等アトリエ。は、1929年(昭和4)の第10回帝展に入選した二瓶等『足を拭ふ女』。


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ChinchikoPapa

間をおかぬ転勤、たいへんですね。わたしも、実は甘辛どたらでも大丈夫です。
nice!をありがとうございました。>NO14Ruggermanさん
by ChinchikoPapa (2010-03-25 10:33) 

ChinchikoPapa

テイラーの「Jazz Advance」は好きなアルバムです。いかにも50年代の録音で、フルレンジか同軸2Wayあたりで聴きたいですね。nice!をありがとうございました。>xml_xslさん
by ChinchikoPapa (2010-03-25 10:41) 

ChinchikoPapa

馴染みのあった小金井駅、消えてしまったのはちょっと残念です。
nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2010-03-25 10:43) 

ChinchikoPapa

黙阿弥の「名大磯湯場対面(なにおおいそ・ゆばのたいめん)」の台本探しを、いまだサボッてたりします。nice!をありがとうございました。>SILENTさん
by ChinchikoPapa (2010-03-25 10:50) 

ChinchikoPapa

兵站を確保できない、佐藤師団長のいう「非常識」な戦闘はとても「作戦」とは呼べないですね。nice!をありがとうございました。>漢さん
by ChinchikoPapa (2010-03-25 12:28) 

ChinchikoPapa

目白駅の事故は、帰宅してから知りました。山手線の線路が近づくにつれ、夜空を何機ものヘリがライトで地上を照らしながら飛んでいたので、なにかあったな・・・とは感じたのですが。nice!をありがとうございました。>ひまわりさん
by ChinchikoPapa (2010-03-25 12:33) 

ChinchikoPapa

子供のころ、おまけのカードを集めた記憶はなく、シールばかり収集していた気がします。nice!をありがとうございました。>ナカムラさん
by ChinchikoPapa (2010-03-25 12:38) 

ChinchikoPapa

壊れてしまわないよう、針がレッドゾーンへ振り切れてしまわないよう、人はどこかで不可解なことをしてバランスをとってるのかもしれません。nice!をありがとうございました。>shinさん
by ChinchikoPapa (2010-03-25 23:38) 

ChinchikoPapa

文字が動くラビリンスが、どうやらわたしはとことん苦手なようです。
nice!をありがとうございました。>トメサンさん
by ChinchikoPapa (2010-03-25 23:40) 

ChinchikoPapa

グリフィスが女優に、ことさら関心を示さなかったのは、やはり同じ職場に奥さんの目が光っていたからではないかと思います。ww こちらにも、nice!をありがとうございました。>sigさん
by ChinchikoPapa (2010-03-28 23:52) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2010-03-30 00:30) 

ChinchikoPapa

こちらにもnice!を、ありがとうございました。>ロボライターさん
by ChinchikoPapa (2010-04-05 10:44) 

ChinchikoPapa

ご訪問とnice!を、ありがとうございました。>ranking2012さん
by ChinchikoPapa (2012-02-01 18:08) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>nikiさん
by ChinchikoPapa (2012-07-07 14:00) 

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