1924年(大正13)7月1日発行の東京朝日新聞に掲載された、下落合の目白文化村Click!を紹介する記事には、箱根土地の開発事業に関する特に目新しい内容は書かれていないが、いままで見たことのない街並みの写真と、第一文化村のかわいいバンガロー風住宅=中村邸の、外観カラーリングを伝える記録は、ちょっと貴重なのでご紹介したい。
 まず、記事に掲載された冒頭の街並み写真は、目白文化村の建物を“見馴れた”眼には、すぐに撮影ポイントを特定することができる。画面左手に見えているライト風の建築は、箱根土地の本社Click!庭園である「不動園」Click!に隣接して設置された、文化村住民のための公民館的な役割りを果たしていた倶楽部Click!だ。めずらしいのは、倶楽部を東側の正面から撮っているのではなく、建物の側面を北東側から写している点だろう。倶楽部の1階に林立していた、特徴的な支柱がハッキリととらえられている。カメラマンは、本社「不動園」の西側に設置された、箱根土地の車庫に接した南北の三間道路上から、第一文化村の建築群を撮影している。カメラマンが立つ路上は、松下春雄Click!が描いた『下落合文化村入口』Click!(1925年)の画面左手に見えている道路だ。
 倶楽部の右手、少し奥まったところに見えているのは末高信邸Click!だ。独特な屋根の形状をもつ同邸は、末高早大教授の妹さんが設計を担当している。その右側、遠くにチラリと見えている三角形の大きな屋根は、巨大なバンガロー風洋館のたたずまいを見せていた渡辺明邸Click!。再び手前の家並みにもどり、倶楽部の右隣り敷地に建つモダンな家は笠松信太郎邸が建設される敷地なのだが、この時期はいまだ箱根土地のモデルハウスだったのかもしれない。
 同建築の右手奧には、のちに会津八一Click!が移り住んで文化村秋艸堂Click!となる安食勇治邸Click!が見えそうなのだが、写っているのは安食邸の建物ではなく、これまで一度も見たことのない2階建ての洋風住宅だ。この建物が、昭和期に入ると空き地状態がつづくことになる、吉屋信子Click!のお気に入り散歩道Click!だった二間道路を隔てた、遠藤豊子邸の姿なのかもしれない。そして、右端にチラリとのぞいている2階建ての西洋館が、のちに桑原虎雄邸となる建物なのだが、当時はここもまだ箱根土地のモデルハウスが建っていたものだろうか。

 ここに写る街並みは、実は箱根土地が1923年(大正12)に作成して配布した文化村絵葉書Click!の、東側半分(左半分)に写る家並みと重なってくる。でも、前年に撮影された文化村絵葉書と決定的に異なるのは、これら家並みの手前に大きく口を開けていた前谷戸の渓谷が、この写真では完全に埋め立てられてしまっている点だ。すなわち、第一文化村を東西に貫通する、弁天社Click!に面した三間道路が、まさに造成されつつある当時の姿をとらえたものだ。文化村絵葉書が撮影された当時、この第一文化村のメインストリートはいまだ存在していなかった。
 興味深いのは、前谷戸の埋め立てが完了した、第一文化村の新たな住宅地の上に、敷地の縁石用か、あるいは電源ケーブルや上下水道を地下に埋設するための共同溝用と思われる石材が、多数用意されているのが写っている点だ。これらは、大谷石のような厚い切り出しのブロック状の石材ではなく、薄い石板のような様子をしているので、共同溝の上にかぶせる蓋石なのかもしれない。湧水源が弁天池を形成し、渓流がくだっていた前谷戸の東側半分は、少なくとも1924年(大正13)の7月までには、埋め立てを完了していたことになる。
 さて、バンガロー風の瀟洒な中村邸Click!の配色について、同紙の記事中から引用してみよう。
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 此の村で一番小さくて然も好く出来てるのは中村正俊氏の住居である、総建坪が二十五坪(、)内部の道具を加へた一切の工費は四千円(、)様式は米国のバンガロ式、例に依つて桃色スレートの屋根にクリーム色の壁の外観も小さいだけに一層可愛い(。) /内部の間取りは六坪の応接室、六坪のサンルーム、寝室が四坪、子供の部屋が三坪其他は湯殿、台所、玄関に割り当てゝあるが応接室は食堂、居室を兼用しサンルームは時に主人の仕事部屋ともなる、家族は夫婦と子供三人の五人暮し、家の周囲は可なり広い芝生の庭で取り巻いて居るのは面白い(。)
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 詳しく紹介された中村邸だが、同邸の写真は残念ながら掲載されていない。冒頭の写真でいえば、少し奥まって写る末高邸の、二間道路を隔てた向こう側が中村邸の建っている敷地だ。

 目白文化村は、この記事が書かれた1924年(大正13)の夏ごろ、敷地全体の約50%に土地購入者が住宅を建設して住みはじめていた。そして、佐伯祐三Click!が『下落合風景』シリーズClick!を描いた、大正末から昭和最初期までに、特に第一文化村と第二文化村はほとんどの敷地に家々が建ち並び、それまでの日本の住宅街ではありえなかった、“異様”な光景が現出することになる。今日の眼から見れば、その“異様”さはむしろおシャレな普通の新興住宅地のように見えてしまうのだけれど、当時の新聞や雑誌がいっせいに取り上げたように、大正期の人々にとってはまるで外国にでも来たような一度も眼にしたことのない光景が、目前に拡がっていたことだろう。
 そんな風景に不安を感じたものか、東京朝日新聞の記者は目白文化村の中を歩きまわりながら、ことさら“日本らしさ”が残る情景をピックアップして、記事を締めくくっている。
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 さりながら文化村と云つても矢張り豆腐屋が頓狂なラツパを鳴らしてペンキ塗りの窓下を廻つて居る(。) 塗りの剥げた笊二枚をおかもちにのせたそば屋の出前がライト式洋館の玄関でマゴマゴして居る、そして持ち出したヴエランダの籐椅子にはしどけない浴衣の胸を拡げて赤ん坊を抱いてる女も居る(。)
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 いまでも、目白文化村には豆腐屋(納豆も売っている)がラッパを鳴らしながら通ってくるし、蕎麦屋の出前もあるだろうし、ベランダには浴衣を干しているお宅もあるかもしれない。これは、別に目白文化村に限らず、東京の住宅街なら今もいたるところで見られる風景だろう。目白文化村の建設から88年、日本人の暮らしは当時の「文化生活」から、さほど変わっていないようにも思える。それは裏返せば、米国西海岸の丘上に拡がる住宅街をモデルClick!に、開発コンセプトを組み上げた目白文化村の洋風生活は、今日を先取りしていた・・・ということになるのだろう。

■写真上:1924年(大正13)の夏、朝日新聞のカメラマンが撮影した第一文化村に建つ西洋館群。
■写真中上:1924年(大正13)7月1日発行の、東京朝日新聞に掲載された目白文化村記事。
■写真中下:箱根土地が1923年(大正12)に配布した、文化村絵葉書にみる同位置の家並み。
■写真下:上左は、1936年(昭和11)の空中写真にみる撮影ポイント。この時期、目白文化村の倶楽部は解体され、新たな住宅敷地として販売されているので存在していない。上右は、新聞記事と同じ1925年(大正12)に作成された、「目白文化村分譲地地割図」にみる撮影ポイント。下左は、新聞写真の撮影ポイントあたりから写した現状。左手の建物が文化村倶楽部のあったところで、右手の塀の敷地が石材が置かれている前谷戸の埋立地。下右は、第一文化村を東西に貫くメインストリートの三間道路で、1924年(大正13)の夏ごろにようやく造成されたと思われる。