先日、久しぶりに林芙美子記念館をのぞいたら、手塚緑敏Click!が描いたかなり大きなサイズの『下落合風景』(制作年不詳)が展示されていた。画面を見たとたん、なんとなく見当がついたのだけれど、このような風景に見えそうなところは、落合地域の西部に2ヶ所ほどありそうだ。念のために、美術の専門家に見ていただいたところ、いろいろなことがわかってきた。
 まず、この作品は筆づかいや表現手法、キャンバス地の様子などから、手塚緑敏の早い時期の作品ではないかということだ。のちの筆づかいや表現と比較しても、“若描き”の風情が強く漂い、どうやら習作ではないかということ。時間をかけて、あるいは数日かけて描かれたものか、画面の場所によって光の位置加減が異なるようだ。しかも、絵具の不自然な盛り上がりから、この絵の下には別の絵がもうひとつ隠れていて、それを塗りつぶして『下落合風景』が描かれている可能性があることもご教示いただいた。既存の作品を塗りつぶして別の絵を描いてしまうのは、画家の習作に多々見られる現象だ。しかも、画学生時代や創作初期の作品に多い。
 手塚緑敏の初期作品というと、おそらく大正末か昭和初期ごろだと思われる。林芙美子Click!と知り合って間もない時期、現在では妙正寺川に“水没”してしまった尾崎翠の旧居Click!、上落合850番地Click!で暮らしはじめたころだろうか。手塚は付近を散策しながら、大正末から昭和初期にかけての落合風景を写しとっている。上落合850番地の借家から、五ノ坂下の下落合2133番地にあった芙美子のいう大きな“お化け屋敷”Click!を借りるきっかけになったのも、手塚が同西洋館Click!を写生していたときに、たまたま大家が通りがかって借り手を探しているのを知ったからだ。これら落合風景を描いた作品の多くは、その後、手塚自身の手で処分されてしまい現存していない。この作品が残されたのは、手塚が上落合にやってきて最初に描いた作品、すなわち芙美子と暮らしはじめた当初の作品というような、なにか記念的な意味合いでもあったのだろうか?
 作品のタイトルは『下落合風景』となっているけれど、これは手塚自身が描いた際に付与したタイトルだろうか? 少なくとも、当時の落合町下落合には、このように拡がる風景はなかったように思われる。想定できる2つの描画ポイントからも、描かれている風景の大部分は上落合、あるいは葛ヶ谷(現・西落合)の“飛び地”および上落合と、落合地域の西部に拡がっていた風景ではないだろうか? 手塚は、少し高くなった崖線の斜面か、あるいは丘上にイーゼルを据えて制作している。季節は冬または早春なのか、手前の家に植えられた庭木はまだ葉をつけていない。


 この作品の注目ポイントとなるのは、描かれている煙突と丘陵地帯がつづく地形だ。手塚と林芙美子が上落合に住みはじめたころ、煙突が比較的多く建っていた同地域について、その所在地をひとつひとつ特定していこう。まず、いちばん目立つのは尾崎翠Click!の作品にも登場する、上落合895~900番地にある落合火葬場Click!の煙突だ。そのすぐ東北側に建っていた上落合894番地の銭湯(屋号不明)の煙突、そこから真北へ300mほどのところに開業していた上落合864番地の三の輪湯の煙突、そして早稲田通りに近い上落合625番地にあった銭湯(屋号不明)の煙突などだ。また、上落合635番地には背の高い火の見櫓が設置されており、少し離れた上落合435番地にも屋号不明な銭湯の煙突が建っていた。
 地上から突き出たこれらの突起物が、作品のような位置関係で見える描画ポイントAは、上高田の寺町Click!にある斜面から落合火葬場を手前に見て、ほぼ東を向いた地点だ。もっとも、この寺町に東京市街から寺々が多く引っ越してくるのは、関東震災後の大正末から昭和初期なので“寺町”と表現するには時期が少し早いかもしれない。画面の右手前に描かれた煙突が落合火葬場、その左側に少し離れて見えているのが上落合894番地の銭湯という位置関係になる。地形的にもほぼ合致しており、正面に見える少しふくらんだ丘陵は上落合の八幡耕地あたり、左の遠景に見えるこんもりとした丘が目白崖線ということになる。ただし、ほぼ中央奥に描かれている突起物が、いまひとつハッキリしない。煙突にしては太くて形状がおかしいし、火の見櫓にしては少し高すぎる気がする。この位置にくるのは、上落合635番地の火の見櫓のはずなのだが・・・。そして、いちばん遠くに見えている突起は、上落合435番地にあった銭湯の煙突ということになる。


 
 別の候補である描画ポイントBは、六ノ坂あたりの斜面から南南東を向くと見えそうな風景だ。右手前に描かれた煙突は上落合864番地の三の輪湯。この煙突は、林芙美子の五ノ坂下の邸からもよく見え、ベランダから撮影された写真Click!が現存している。三ノ輪湯の左側の煙突は上落合894番地の銭湯(落合火葬場の煙突は重なっているか、上高田の丘陵で隠れている)、ほぼ中央奥に見えている煙突は上落合625番地の銭湯・・・という位置関係だ。正面の低い丘陵地帯は、柏木(東中野)地域で、左手の小高い森は旧・華洲園あたりの濃い緑ということになる。この時期は、華洲園跡が高級住宅街としての再開発に着手されるころだろう。画面手前に描かれた枯れ木のある家の一帯は、当時、上落合でも下落合でもなく、葛ヶ谷(現・西落合)の飛び地だったエリアだ。
 しかし、描画ポイントBの場合は、不自然な点が多いことは否めない。まず、いまだ蛇行を繰り返す小川だったとはいえ、妙正寺川の流れがハッキリしない。また、目白崖線の麓を通っていた東京電燈谷村線Click!の高圧鉄塔Click!が見えない。同時に、そろそろ線路が敷かれはじめていたとみられる、西武電鉄Click!工事の形跡が見られない。さらに、ほぼ正面に描かれた突起物が銭湯の煙突だとすると、手前に並ぶように見えていたであろう火の見櫓が影もカタチもない。画家が風景画を描く際、画面構成を優先した省略やデフォルメはよく行われるけれど、それにしても省略が多すぎるのだ。どちらかといえば、描画ポイントAのほうに強いリアリティを感じるゆえんだ。
 
 
 林芙美子記念館へうかがったとき、偶然に林芙美子の姪にあたる林福江様とお会いすることができた。林福江様はいまでも近くにお住まいだが、昭和初期、五ノ坂下の西洋館で暮らしながら、落合第二小学校Click!(現・落合第五小学校)へ通われていた。通学路は、遠まわりになる中ノ道(下の道)Click!を中井駅方面へと向かわず、南へ歩いて妙正寺川の美仲橋をわたり、東へほぼ一直線に歩きながら旧・落二小学校へ登校されている。同小学校の正門南にあった坂上には、「チーチーパッパ」の騒音にヒステリーを起こした中條百合子Click!(宮本百合子)が住んでいた。手塚緑敏の『下落合風景』は、林福江様にとっても懐かしいご近所風景なのだろう。

◆写真上:林芙美子と知り合った、大正末ごろに制作されたとみられる手塚緑敏『下落合風景』。
◆写真中上:上は、1925年(大正14)の新井1/10,000地形図にみる描画ポイント。下は、1929年(昭和4)に作成された「東京府豊多摩郡落合町全図」にみる描画ポイント。
◆写真中下:上は、描画ポイントAの想定による同作に描かれた風景の位置関係。中は、描画ポイントBの想定による同作風景の位置関係。下は、同作の部分拡大。
◆写真下:上左は、手塚緑敏が使っていた画道具。上右は、四ノ坂の母屋に隣接して建つ手塚緑敏アトリエの天窓。下左は、五ノ坂下の下落合2133番地に借りていた手塚・林邸のベランダから眺めた三の輪湯の煙突。下右は、興味深いお話をうかがえた林芙美子の姪にあたる林福江様。