箱根土地が目白文化村の開発を切り上げ、とうに下落合から離れて国立へ移転してしまったあと、1940年(昭和15)の1月から、勝巳商店地所部による「目白文化村」の分譲がスタートした。もちろん、箱根土地が開発した目白文化村Click!とは異なる分譲住宅敷地だ。だから、人気のある目白文化村のネームを利用(流用)した、下落合のまったく新たな分譲住宅地なのだが、この売り出しが第四文化村の販売で終了していたはずの目白文化村事業へ、のちに「第五文化村」のイメージを強く形成しやしなかったか?・・・というのが、きょうの記事のメインテーマだ。「第五文化村」については、1929年(昭和4)に構想のまま終わったと思われる、1,639坪の小規模な販売計画があったようなのだが、実際に販売された形跡はどこにも見あたらない。
 箱根土地Click!による目白文化村の開発は、現存する売り出しの新聞広告および購入者の分譲地割図によれば、第四文化村Click!をもって終了している。「第五文化村」に関する、同社の販売広告も分譲地割図も確認できない。ところが、遅れて5回目の販売が行なわれた・・・という記憶をお持ちの方が地元にはおられ、また第二文化村の売れ残りを「第五文化村」として販売した・・・という伝承も残っている。しかし、第二文化村のほとんどの敷地は、明らかに1923~24年(大正12~13)に売れてしまっており、一部谷間の急傾斜地のせいで開発が遅れたか、あるいは宅地造成がしにくかった第二文化村東端の土地を、第四文化村として改めて販売しているのが実情だ。
 「第五文化村」の伝承は、上記事実の計画レベルの構想と、現実に行なわれた事業との間における時系列的混乱、および記憶の融着が起きて伝えられている、箱根土地とは関係のない「目白文化村」の販売ではなかっただろうか? なぜなら、勝巳商店による「目白文化村」は第二文化村に近接し、見ようによっては同文化村の「つづき」(売れ残り)を分譲しているようにも見えるからだ。ところが、この敷地は箱根土地とはいちおう無関係な、勝巳商店地所部が開発して販売している。ちょうど、東京土地住宅Click!によって開発された「近衛町」Click!と、近衛町西側の林泉園Click!南側に東邦電力によって開発されたとみられる「近衛新町」との関係に似ているだろうか。分譲広告は、1940年(昭和15)1月20日から東京朝日新聞と読売新聞の紙上に掲載され、同年5月24日をもって掲載を終了しているようだ。1回目(1月20日)の広告から、ボディコピーの一部を引用してみよう。

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 目白文化村高級住宅地分譲
 現地説明/本分譲地は、大東京市内に於ける最高の模範文化住宅地帯です。西武電車・中井駅より僅かに一町半のところ、空気清澄にして高燥平坦な高台で、富豪住宅櫛比して環境頗る良く、而も全区画整然として美装大道路を縦横に備ふる高級住宅地です。この最良地にして、付近地価の半価! 誠に将来に於いても再び得難き秘蔵地の大開放(ママ)です。ある土地専門家曰く、「この良地! この廉価! 稀有の大奉仕的発表で、必ずや数日を経ずして売切れるでありませう」と。これこそ真に絶対的自信を以て推奨し絶叫し得るものです。一刻も早く御見地を。
 ★中井駅より徒歩三分、交通頗る至便  ★地盤強固、混凝土大谷石工事済み
 ★下水暗渠完備、電瓦水引用自在    ★環境よく、直ちに建築出来る土地 ・・・
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 勝巳商店地所部が「絶叫」し、「絶対的自信を以て推奨」したにもかかわらず、数日では売り切れずに、5ヶ月も媒体広告を打ちつづけることになった。ただし地価は、坪当たり38円(初回売り出し時のみ)から48円へと途中で値上がりしている。1923年(大正12)に販売された第二文化村の地価が、坪当たり50~70円だから(しかも、当時は西武電鉄はまだ開通していなかった)、17年後の地価にしては確かに安い。では、なぜ「数日を経ずして売切れ」なかったのだろうか?
 まず、想定できるひとつめの理由は、中井駅から半径「一町半」(約146m)のところに、広告の現地写真のような広い住宅敷地は、1940年(昭和15)現在ではもはや存在していないこと。同様に、半径徒歩3分以内でたどり着ける、このような広い宅地エリアは、同年にはすでに見あたらない。言い換えれば、多分に誇大広告の匂いがするのだ。だから、現地を見学に訪れた顧客は、「もう5分以上も歩いてるよね」、「もうすぐでございます」、「三町ぐらい来てるよね!」、「あと、ほんのちょっとでございます」、「やたら速く歩くじゃん、急坂で足ガクガクだしさ!」、「ほらほら、見えてきましたあこがれの文化村」・・・というようなことで、顧客が不信感をおぼえた可能性があること。今日とは異なり、当時は不動産屋の広告表現に関する規制など存在しなかった。

 理由のふたつめは、1940年(昭和15)が太平洋戦争突入の前年であるという時代状況だ。この年、街中では「♪金鵄輝く日本の・・・・・・紀元は二千六百年~」と浮かれて唄われる中、国家総動員体制がさらに推進され、社会全体が急激に不自由さや逼塞感を増していった時期だ。あらゆる人的・物的資源が統制され、さまざまな配給制が敷かれていく状況で、当然ながら宅地開発用の機材や建築資材の入手、建築関係者の確保などが困難になりつつあるのは予測されていただろう。だからこそ、1日でも早く分譲地を完売したいがため、勝巳商店では坪単価を思い切って低く抑えたのではないだろうか。当時の不動産屋としては、手っとり早く「売り抜け」したかったのだろう。
 それにしても、勝巳商店は「目白文化村」の商標をよく使えたものだ。先に引用した、開発主体が異なる「近衛町」と「近衛新町」というネーミングならまだわかるのだが、「目白文化村」は箱根土地の開発ネームそのままだ。それを丸ごと、ちゃっかり拝借して分譲したものか、あるいは使用料を払って広告に用いているのかは定かでないけれど、すでにまとまりを持った街並みに成長していた目白文化村の住民たちにしてみれば、「なんで今さら、また売り出し??」と不可解に感じたことだろう。このあたりから、計画のみで終わったとみられる「第五文化村」とは別に、実際に販売された「第五文化村」の存在イメージが、ことさら醸成されたのかもしれない。
 うがった見方をすれば、勝巳商店が分譲した土地は、もともと箱根土地の所有地であり、下落合の開発から少しでも早く“足抜け”し資金を調達して、国立Click!や東大泉Click!の開発へ集中したい箱根土地が、勝巳商店へ「目白文化村」の商標使用を認めた上で、土地を譲渡していたのかもしれない。つまり、下落合から「売り抜け」したかったのは箱根土地だったのかもしれないのだ。


 では、大正期の箱根土地による目白文化村ではなく、昭和期の勝巳商店版「目白文化村」が、いったいどのあたりの土地を開発して分譲したものか、次回は広告の現地写真からたどる、1940年(昭和15)の遅れてきた「目白文化村」について探ってみたい。
                                                 <つづく>

◆写真上:1940年(昭和15)1月20日の東京朝日新聞と読売新聞に掲載された、本郷区湯島・神田明神前の勝巳商店地所部による「目白文化村」全3段広告の部分拡大。
◆写真中上:同広告の全体画像で、当初は坪単価が38円の売り出しだった。
◆写真中下:同年2月24日の紙上広告で、坪単価が48円に値上がりしている。
◆写真下:上は同年3月23日、下は5月24日の両紙に掲載された分譲広告。