1931年(昭和6)に竣工した聖母病院Click!のフィンデル本館Click!の“装甲”が、厚さ60cmと知ったときには唖然としてしまった。同時期の軍施設よりも分厚い装甲で、ちょっとした地震などにはビクともしなかっただろう。この分厚いコンクリートは、もちろん関東大震災Click!の教訓を踏まえたものであり、東京では比較的地盤の固い河岸段丘である目白崖線の丘上から中腹にかけ、いわゆる“青柳ヶ原”Click!と呼ばれた一帯に建てられたのも、大地震が起きても病院としての機能が決して失われないよう、設計当初から意図されていたものだろう。
 戦争の末期、硫黄島から飛来したP51が落としでもしたのだろうか、250キロ爆弾が屋上へ命中したがハネ返し、ほとんどたいした被害は受けなかった・・・という伝承があるけれど、ちょっとした戦艦のバルジ(魚雷攻撃に備え吃水下の鋼板と鋼板の隙間にコンクリートを流しこんだ舷側装甲)並みの60cmコンクリート装甲なら、250キロ爆弾による攻撃などハナから通用しなかっただろう。500キロ爆弾を落されても倒壊せずに、そのまま持ちこたえたかもしれない。フィンデル本館は、まさに要塞のような、いや今日的にいえばデータセンターClick!のように頑丈な建築であり、大規模なリニューアルがなされた現在でも、建物の本質的な基本構造は変わっていない。
 小川薫様Click!からお借りした、「嘆きの白衣の天使たち」Click!などの写真が撮られた場所を特定するために、小道さんClick!を通じて北海道大学教授の角幸博様から、たいへん貴重な聖母病院の資料画像をお送りいただいた。画像データは、ドイツ人マックス・フィンデル★によって設計されたフィンデル本館の初期設計図(地階~5階)と、1934年(昭和9)以降に作成された「国際聖母病院」絵葉書、それに1934年(昭和9)にフィンデル本館西側に接して建設された木造新聖堂の内部写真だ。
★聖母病院や新宿区の資料ではMax Hinder(1887-1963)は「ドイツ人」となっているが、晩年はドイツで暮らしたもののスイス人であることが、オジロさんのご教示Click!で判明している。

 
 聖母病院(マリアの宣教者フランシスコ修道会)のチャペルは、1931年(昭和6)にフィンデル本館が完成した当初は、3階の南西角に位置する講堂に設置されていた。ところが、北大の角教授によれば、この講堂は3年後にはいくつかの壁に仕切られ、すでに病室へと改築されているらしく、それは本館西側に木造新聖堂が完成したためと思われる。お送りいただいた、木造新聖堂の内部写真を見ると、つい最近解体された1963年(昭和38)築のチャペルよりも、もう少し規模が小さめだったようだ。また、室内の意匠はかなり重厚であり、戦後に建てられたモダンなチャペルとは、ずいぶん雰囲気が異なっているのがわかる。戦前から戦後の1950年代まで、同チャペルのミサなどに行かれた方は、この木造新聖堂のご記憶があるのではないだろうか。
 「国際聖母病院」絵葉書も、たいへん興味深い画像だ。実は、この絵葉書は当サイトでも一度記事に掲載Click!しているのだけれど、画像があまりに小さくて細部がハッキリしなかった。角様からお送りいただいた画像は、細部までがよくわかる高精細データであり、旧“青柳ヶ原”に展開していた聖母病院の施設全体を、仔細に観察することができる。まず、フィンデル本館の西側には、すでに木造新聖堂が描かれているので、この絵葉書は1934年(昭和9)以降に作成されたことがわかる。新宿区が出版している『新宿区の民俗(4)落合地区篇』(1994年)では、同写真のキャプションに「昭和6年頃」とされているが、「昭和9年以降」とするのが正しいだろう。絵葉書のタイトルに、「HOPITAL」★と「S」抜けの“大誤植”があるのはご愛嬌なのだが、1931年(昭和6)まで“青柳ヶ原”と呼ばれた丘が、どのように開発されたのかがよくわかる。
★同じくオジロさんにより、「HOPITAL」は「S」の付かないフランス語であることもご指摘Click!いただいた。オジロさんには、改めて感謝申し上げたい。

 
 フィンデル本館の南側には、「シベリア鉄道」と呼ばれた長い長い渡り廊下が造られているが、当初は吹きっつぁらしだった廊下に寒くないよう壁が設置されていて、1934年(昭和9)以降には改築されていたのが見てとれる。「シベリア鉄道」は、南側の慈善院(孤児院か?)と慈善病院、ワイナリーなどの建物につづいているのだが、その両側の畑に栽培されているのはおそらくブドウや野菜だろう。聖母病院は、不動谷(西ノ谷)Click!と諏訪谷Click!とに挟まれた丘上に建てられており、聖母坂が画面手前の諏訪谷に向け、斜面Click!を切り崩して拓かれている様子がよくわかる。敷地の擁壁には大谷石が用いられているが、この高い石積みはリニューアルされる前、つい最近まで残っていて見ることができた。聖母坂Click!を行きかう人やクルマに混じって、乗馬姿の人物も描かれているが、学習院馬場Click!や近衛騎兵連隊Click!もほど近い、下落合の特徴的な風情だったのだろう。
 聖母病院の西側、絵葉書では画面奧にあたる一帯には濃い緑が描かれているが、箱根土地が開発した第三文化村Click!敷地の一部だ。もっとも、実際に建てられていた家々の配置や、住宅のデザインとは異なっているので、あくまでもイメージとしての背景なのだろう。聖母病院の北側、絵葉書の画面右端には、この鳥瞰イラストの角度からすると“青柳ヶ原”という名称の元となった青柳邸Click!や、佐伯祐三Click!アトリエの三角屋根と母屋が見えていなければならないが、それらしい建物は描かれていない。描かれた家々は、すべてモダンな西洋館となっている。
 
 

 聖母病院(1943年より軍部の命令で「国際」を外された)は、東京の病院の中でもトップクラスの堅牢さを備えていた。戦時中は、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!にはじまり、4月13日と5月25日の二度にわたる山手空襲Click!の負傷者を救護しつづけ、下町の多くの病院とは異なり、最後まで延焼・破壊Click!をまぬがれて病院機能を失わなかった。通信網がズタズタに途絶している中、義父Click!が負傷者を満載した陸軍のトラックで、何度も下町から下落合をめざしてきたのは、どこかで「堅牢な聖母病院は大丈夫、焼けない」・・・という確信があったようにも思えるのだ。

◆写真上:1934年(昭和9)以降に印刷されたとみられる、「国際聖母病院」絵葉書。
◆写真中上:上は、1931年(昭和6)にフィンデル設計当初の3階平面図。下左は、戦前に屋上で日光浴をする入院患者で、眼下には下落合2丁目(現・4丁目)の住宅街が拡がる。また、右手の遠景には薬王院の森(現・新墓地Click!)が見えている。下右は、聖母病院の5階尖塔部。
◆写真中下:上は、1934年(昭和9)に建設された木造新聖堂の内部。下は、1963年(昭和38)に建設されたモダンな新チャペル(左)とその内部の様子(右)。現在は、解体されて存在していない。
◆写真下:「国際聖母病院」絵葉書の部分拡大。