下落合753番地に住んだ九条武子Click!ほど、イメージで作られた人物像と実生活での実像とに、少なからぬ隔たりのある女性もめずらしいのではなかろうか? 清楚でモノ静か、いつも体裁を崩さず控えめで、ジッと居ずまいを正しながら哀しげな表情で想いにふけって歌を詠む・・・というようなイメージは、おそらくマスコミによって醸成された虚像であって、下落合で暮らした彼女の実情からは遠そうだ。どてらを羽織りながら、コの字になった邸内の廊下を走り抜け、庭師を雇うのがもったいないと大バサミを手に庭木の手入れを自分でしてしまう彼女の姿は、夫人の死後に西本願寺の肝煎りによって作られた人物像(映画や書籍など)により、どこかへかき消されてしまったようだ。
 1971年(昭和46)発行の『婦人公論』10月号のエッセイ「ライター泣かせ」で、向田邦子Click!は「何もしないで『かっこ』がつくのは九条武子夫人とデビ夫人くらいのもので、ナミの女は、小まめに体を動かしてくれないと、セリフが書きにくい」・・・と書いているけれど、そもそもこのイメージ自体が彼女の没後から作られはじめた「九条武子像」なのだろう。下落合の九条武子は「何もしない」どころか、台所まわりのみに必要最少の女中しか置かず、家事はほとんどを自分でこなし、工事用の“ネコ”をどこからか調達してきて、邸周囲に散らばる路上の石や土砂を片づける道路整備まで行なっている。また、小まめに雑誌の取材を受け、その日常の姿を案外飾らずにさらけ出しているのだが、記者やカメラマンの注文なのか、掲載されるグラビア写真ときたら、モノ想いにふけるような表情で、「何もしない」ポーズをとる彼女の姿が多い。親友が撮影した、九条武子が家事でキリキリ動きまわる日常的なスナップ写真Click!がようやく公開されたのは、没後7年もたってからのことだ。
 
 九条武子の“寝起き”を襲った雑誌が、1926年(大正15)に発行された『婦人画報』11月号だ。もっとも、「7時に取材へうかがいます」と電話で事前に知らせての訪問だから、ほんとうの“寝起き”突撃取材ではないのだが、「まあ、そんなに早く? お床の中かもしれませんよ」と答える九条武子には、ちっとも苦にはならなかっただろう。なぜなら、彼女は毎朝5時に起きて、家じゅうの部屋と敷地内外の掃除をするのが日課であり、午前7時はひと仕事終えたあとの朝食の時間だったからだ。ただし、記者やカメラマンを迎えた彼女は、どてら姿でも割烹着姿でもなく、「濃い藍ねずの御召しに黒と白の青海波(せいがいは)の小紋の羽織」という身づくろいはしていた。
 朝の「おつとめ」を撮影したい・・・というカメラマンの要望へ、仏壇は持ってこなかったので家内にはないと答える九条武子に、記者たちは少なからず驚いているようだ。『婦人画報』の記者も、あらかじめ彼女の経歴やイメージClick!を資料などでつかみながら取材しており、どうやら事前に想定した「予定調和」の記事内容が、次々と崩されていくのに困っている様子なのだ。彼女のイメージからすると、朝食は朝がゆに漬け物、汁物少々・・・などというような先入観を抱くのだが、これも大違いで記者の「期待」は次々と裏切られていく。洋間の食堂で、キツネ色に焼けたバタートーストをかじり、コーヒーを飲みながら片手で新聞を拡げて読むという、まるで“オヤジスタイル”全開の九条武子なのだ。「一つお行儀のいゝところでも御目にかけませうか」という彼女に、記者も呆気にとられてコメントに窮したのだろう、「時間の経済でおよろしいぢやございませんか」などと答えている。
 
 九条武子が飲んでいるコーヒーは、「南洋に居る兄がコーヒーを作つてゐますから、豆のまゝ送つて来ますから、それを挽いていたゞきます」ということだけれど、大正末のこの時期、日本で一般的にコーヒーが飲まれるようになってから、まだ15年ほどしかたっていない。コーヒー豆が東京で本格的に出まわりはじめたのは、1909年(明治42)にブラジルのサンパウロから豆が大量に輸入されるようになってからのことだ。コーヒーショップの開店は、1911年(明治44)に銀座でオープンした「カフェーパウリスタ」と「カフェープランタン」が嚆矢だろう。九条武子はブラジル豆ではなく、東南アジアのおそらくプランテーション(インドネシア?)で栽培されたコーヒーを送ってもらい、自宅で粉にして飲んでいたものだろう。でも、冒頭の朝食写真を見ると、食べかけのトースト皿の横に置かれた有田焼きの茶器セットは、どうやらコーヒー用のものではなく紅茶用のものに見える。コーヒー専用の家庭向け茶器が発達するのは、もう少しあとの昭和に入ってからのことだ。
 この取材でも、九条邸にウロウロしていたネコClick!が登場して、カメラマンのズック(スニーカー)の紐にジャレついてまわっている。「カベちゃん」と呼ばれる仔猫と、その母親ネコの2匹が登場するのだが、下落合をウロつく野良ネコとの間に仔猫が産まれると、彼女は知り合いや近所に配って歩いていたようだ。もらい手がなかなか見つからないときは、家の前に貼り紙をして“里親”探しをしようとしている。華族としての「公務」以外で見せる九条武子Click!の素顔は、なよなよと弱々しくモノ静かで哀しげに澄ましてなどおらず、非常に活発かつ饒舌で取材記者とのおしゃべりでさえ楽しそうだ。
 
 向田邦子は、前掲のエッセイの中で、「ドラマ書きにとって有難くないことの一つに世の中が早口になったことがある。八年前『七人の孫』ではたしか四百字詰め原稿用紙で六十五枚で充分だった。ところが『時間ですよ』では八十枚書かなくては足りないのである」・・・と書いた。「公務」における九条武子は、「原稿用紙でニ~三枚」のことしか口にしなかったのかもしれないけれど、下落合での彼女は「原稿用紙で八十枚」のおしゃべりで、大柄な身体にどてらや割烹着を着て、竹箒を片手に現・野鳥の森公園の丘上をキリキリと、小まめに動きまわっていたのかもしれない。

◆写真上:トーストにコーヒーの朝食をとる九条武子だが、さすがに新聞はどこかへ置いて、グラビア向けによそ行きの化粧と表情をしている。彼女の下落合での取材記事を読むたびに、「わたくし、ホントはこうなのです」と巷間のイメージを否定しているように感じるのだが・・・。
◆写真中上:左は、九条邸の南にいまも拡がる雑木林。右は、ふだんの表情に近いポートレート。
◆写真中下:左は、大正初期に東京を走っていたコーヒー豆を配達する「カフェーパウリスタ」専用トラック。右は、明治末の同時期に銀座へ開店した「カフェープランタン」の店内。
◆写真下:左は、下落合で撮影された“いかにも九条武子”を演じる彼女のポートレート。どの取材記事でも、彼女はマスコミによって作られた既存のイメージから脱け出ようとしているように思えるのだが、反面、歌人としてマスコミを通じてしか自活への道が考えられなかったアンビバレントな表情も見せているようだ。右は、彼女の死後である1930年(昭和5)に公開された映画『九条武子夫人 無憂華』(東亜キネマ)のワンシーン。おそらく、九条武子のイメージを決定づけた作品だろう。