下落合に住んだ早逝の画家に、長野新一Click!がいる。目白通りもほど近い、第三落合府営住宅の「市外落合町府営住宅三の十一」、すなわち下落合1542番地に住み、東京美術学校を卒業したあと学校の美術教師を勤めながら、画題を求めて自宅周辺を散策している。長野新一の「下落合風景」は、おもに帝展や中央美術展に出品されて何度か入選を繰り返した。ちなみに、同じ第三府営住宅の長野邸から南へ数軒、「府営住宅三の二四」すなわち下落合1599番地には洋画家・江藤純平Click!が住んでおり、お互い交流があったものだろう。1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」でも、ふたりの名前が採取されているのを確認できる。
 長野の作品が重要なのは、佐伯祐三Click!の連作『下落合風景』Click!に先がけること2~3年ほど前から、周辺の風景を描きとめているという点だ。ちょうど、松下春雄Click!による「下落合風景」シリーズClick!の制作時期とも重なっており、大正末から昭和初期にかけての急激な宅地開発の波が押し寄せる直前の、いまだ武蔵野の面影が色濃い落合地域の姿をとらえた作品が多い。長野自身も、整えられた新しい街並みを描くよりも、鄙びた昔ながらの田園風景を描くことを好んだらしく、二瓶等Click!などの画題とは対照的なモチーフを選んで制作している。
 冒頭の作品は、1924年(大正13)に制作された『養魚場』というタイトルが付いている。手前に、魚を養殖する池なのか水面が見え、正面の小屋の脇にも池が形成されているのがわかる。そして、水面をたどって奥へ目をやると、小さな水門があるのが見てとれる。この水門の向こう側には、手前の池を形成する小流れが合流する、もう少し大きな流れの川があるのだろう。背景の右手には、かなり小高い丘が見えており、画面奧にもなだらかな丘陵地帯が連なっているのがわかる。また、左端にチラリと見えている平地(畑地?)は、描かれた手前の土地よりも少し低いことがわかる。太陽光はほぼ真上か、やや右手の上空から射しこんでいるようだ。
 落合地域で、大正中期に営まれていた「養魚場」の話は、残念ながらこれまで聞いたことがない。昭和初期に開業したらしい、不動谷(西ノ谷)Click!出口の「釣り堀」Click!と、戦後に東邦生命がなんらかの養殖事業を企画していたと思われる「精魚場」Click!ぐらいしか、養魚事業に関する情報は得ていない。ただし、描かれた風景の地形や池、小屋、水門、光線の具合などから、落合地域ではたった1ヶ所、心当たりが存在している。下落合の目白崖線を西端までたどった中井御霊社の下、中ノ道(下の道)Click!に接したすぐ南側、当時では葛ヶ谷(現・西落合)の飛び地で「葛ヶ谷御霊下」(のち下落合5丁目)と呼ばれた、水車橋近くの情景だ。番地では、葛ヶ谷御霊下802番地に当たる。
 
 ちょうど同年に発行された、新井1/10,000地形図を参照すると、この風景の地形や建物などを確認することができる。もっとも同地図は、ほぼ1921年(大正10)現在の建物しか収録していないのだけれど、1924年(大正13)になっても、周辺の風情にはたいして変化がなかっただろう。手前とその先に見えている水面が、「養魚場」として使われていた池だと思われる。正面の小屋は、目白崖線から湧き出る小流れ、妙正寺川の支流のひとつに架けられた水車小屋だ。建物の様子から、淀橋水車Click!と同様に水車が屋内にある仕様だったのかもしれない。小屋の向こう側には、水車橋と呼ばれる小橋が架けられていた。妙正寺川の整流化・護岸工事が進められ、流れが大きく変化したあとも、このあたりに架けられる橋は「水車橋」と名づけられ、現在にいたっている。
 正面の小高い丘は、関東大震災で罹災した下町の寺々が大正末頃から次々と転居してきて、やがて寺町Click!を形成する野方村上高田の崖線だ。この丘の向こう側には、落合火葬場Click!があるはずであり、丘の左手に見えている低地は、のちに牧成社牧場Click!が拓かれるあたりに相当する。正面の崖線と小屋との間には、当時はいまだ「小川」と呼ばれていた妙正寺川が流れ、ちょうど長野がイーゼルを建てている位置には、数年後に西武電鉄の線路が敷かれることになる。地元の人たちは、この界隈を「バッケが原」Click!と表現しており、画面の左手、つまり東へ妙正寺川の流れをたどると、ほどなくバッケ堰Click!の1枚橋にさしかかる。広大な「バッケが原」は、1945年(昭和20)4月13日の文化村空襲Click!では避難場所になるほど、のちのちまで原っぱが拡がっていた。
★その後、第一文化村と第二文化村は4月13日夜半と、5月25日夜半の二度にわたる空襲により延焼していることが新たに判明Click!した。

 さて、2枚目の作品は、1925年(大正14)に制作された『郊外の或る新開地』と題された作品だ。画面がイマイチ茫洋としていてはっきりせず、地形や家々の配置が曖昧だが、いちばん特徴的な眺めは画面の左上に見えている、小高い丘上に建設された大きな西洋館だ。半島のように突き出た丘上に、このような西洋館が見えている場所というのは、1925年(大正14)現在の下落合でもわずかしか存在しない。画面の奧には小高い丘が連なり、手前にくるほど低くなっている。丘の連なり具合から、どうやら崖線へと入り込む谷戸の入り口あたりを描いた風景のように思える。カラー画像が残っていないので断定することはできないけれど、手前に見えている描画の質感は土道であり、中央を横断するように描かれている植木沿いの白い帯も、どうやら道のようだ。光の射し方や加減から、画家の背後あるいは左寄りの背後が南のように思える。
 中央を左手から右手へと、やや弓なりにカーブしながら横断している道は、目白崖線下に通う鎌倉街道(現・新井薬師道)ではないだろうか。正面に見えている小高い丘が、ふたつの谷戸を東西に分ける青柳ヶ原Click!の傾斜面。左上に見えている大きな西洋館は、必然的に西坂の崖上に建っていた徳川邸(旧邸)Click!ということになる。1925年(大正14)当時、このように突き出た崖上に建設されている邸宅では、まっ先に西坂上の徳川邸が思い浮かぶのだ。そして、手前に見えている土道は、すぐに左右二手に分かれているように見えるので、西ノ橋をわたってすぐの地点、すなわち大正初期まで下落合字摺鉢山Click!の地名が残っていた二叉路の分岐あたりから、北側を向いて描いた風景ではないだろうか。手前左端と右端の少し奧には、道沿いに設置された電柱が見える。地番でいえば、下落合字本村1060番地界隈ということになる。
 
 
 長野がイーゼルを立てた背後には、妙正寺川に架かる西ノ橋が架けられており、ほどなく神田上水と落ち合う流れは、水音を高く響かせていたのかもしれない。現在、青柳ヶ原の丘は大きく削られ、画面奧から手前に向かっては1931年(昭和6)に聖母坂Click!が拓かれ、二叉路の目の前を十三間通り(新目白通り)が横切っているので、大正期の面影を想像するのはもはや困難だ。長野が同作を描いてから3年後、このあたりでピクニックに来た人たちによるタバコの火の不始末により、あわや徳川邸を焼きそうになる大火事が起きるのだが、それはまた、別の物語。
 これらの作品は、ともに各年の帝展へ出品されたものだが、現存しているかどうかは不明となっている。カラー画面が見られれば、さらに詳細な検討ができるのだが・・・。

◆写真上:1924年(大正13)に制作され、帝展に出品された長野新一『養魚場』。
◆写真中上:左は、中ノ道(下の道)から見た葛ヶ谷(現・西落合)飛び地の御霊下の現状。右は、描画ポイントもほど近い水車小屋が建っていたあたりで当時の面影はない。
◆写真中下:1925年(大正14)制作で、やはり帝展に出品された長野新一『郊外の或る新開地』。
◆写真下:上左は、西ノ橋の北にある描画ポイントと思われるあたりより、西坂から青柳ヶ原跡の目白崖線を眺める。上右は、同所の目白崖線を上空から眺めたところ。下左は、1925年(大正14)発行の新井1/10,000地形図にみる『養魚場』が描かれた葛ヶ谷字御霊下802番地界隈。下右は、同じく『郊外の或る新開地』が描かれたと思われる下落合字本村1060番地界隈。