関東大震災Click!の惨禍が目前の1923年(大正12)7月、読売新聞は東京市周辺の近郊に拡がる町村を紹介する、ルポ「市を取巻く町と村」シリーズをスタートさせている。その中で、当時の落合村が何度か取り上げられているので、落合の各地域ごとに回を分けてご紹介していきたい。関東大震災による混乱で、1923年(大正12)の夏から秋にかけては、落合地域にとっては“記憶の空白”期間でもあるので、同紙の記事はとても貴重だ。
 当時は、このサイトですでに登場している川村辰三郎Click!が村長をしていた時代で、東京府による落合府営住宅Click!をはじめ、箱根土地の目白文化村Click!、東京土地住宅Click!による近衛町Click!とアビラ村Click!、東邦電力による近衛新町Click!と林泉園の開発など、いわゆる田園都市構想にもとづく「文化住宅」街が急速に形成されつつある時代だった。川村村長の地域づくりコンセプトは、当時の最先端をいくモダンな住宅街や華族の大邸宅、あるいは別荘の建築は認めるが、排煙をともなう工場の進出と、墓地が付属する寺院の新たな転入はいっさい認めないという、かたくなな姿勢を貫いていた。川村村長は、自身でそれを「村是」と表現している。すなわち、洋館が建ち並ぶ「文化住宅」街という落合村のイメージを強くアピールし、東京府内での認知度を高めることによって、工場や企業の進出ではなく、高所得者層の住民増加による税収の拡大を企図していたものと思われる。川村村長の思惑は、その後の爆発的な税収の増加で的中することとなった。
 1923年(大正12)7月16日の読売新聞より、「市を取巻く町や村(15)」から引用してみよう。
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 「近衛町」は近衛公爵の持地を前後二回に解放したもので新町共で約二万五千坪ある。目白駅が近いので相当な成績をおさめ去年の六月頃坪九十五円で分譲したところがもう今日では百二十円の売買になつた。学習院が不良公達の取締りをする為めに寄宿舎を造るので三千坪を買込んだりしてゐるが土地の売れた割合には住宅が建たないのはどうした訳だらう。しかし新町といふ方には東邦電力会社の小じんまりとした洋館社宅が二十近くも建ち並んで「林泉園」とよんでゐるが近くの田村実さんの邸宅など坪当り五百円近くもかけたといふだけに流石にすばらしい洋館だ。川村満鉄社長もまた邸は建てないが土地だけは二百八十坪買つてあるさうだ。上落合には火葬場があるので盛に色々な寺がこの村へ入りたがるが村長は煙の出る工場と共にこの寺が嫌ひで寺に墓場が付き物だからそんなものが方々に出来ては村の風致を害し住宅地としての値打がなくなると頗る頑強に寺を拒んでゐるやうだ。この風致で思ひ出すのは下落合の神田上水の白堀通りにある「一枚岩」で夏は蛍秋は月の名所として江戸時代から知られたところだ。(以下略)
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 この記事で興味深いのは、近衛町の土地の坪単価が発売時からわずか1年で、坪120円に値上がりしていることだ。また、発売時には坪単価が95円と書いてあるけれど、1922年(大正11)4月11日の東京土地住宅による当初の予定では坪68円50銭のはずであり、すでに新聞発表の時点から販売されるまでの間に、坪単価が26円50銭も値上がりしているのがわかる。
 また、1928年(昭和3)に建設される学習院昭和寮Click!のことを指していると思われるが、近衛町で「不良公達の取締りをする為めに寄宿舎」を建てる敷地として、3,000坪の土地が売れたと書かれているが、これは学習院がキャンパス内にもともとある、老朽化した学生寮を建て替えるために敷地を購入しようとしていたのであり、別に「不良公達」の施設を新たに建設しようとしていたのではない。おそらく、読売の記者が取材した当時、落合村では学習院の寮建設をめぐって、このようなウワサがあちこちで流れていた・・・ということなのだろう。
 なにか新しい施設や建物が建設されようとすると、今日のようにメディアが発達していなかった当時、情報不足からネガティブなウワサが地域へ流布するのは、むしろ頻繁に見られた現象だ。1931年(昭和6)に聖母病院Click!が建てられるときも、事実からかけ離れたメチャクチャな流言が落合全域を駆けめぐり、ついには西武鉄道までがそれに振りまわされて反対運動に乗り出すという混乱が見られた。誰も“ウラ取り”を行わない、すべてが根も葉もない虚言なのだが、この現象が最悪のかたちで現出するのが、同年9月1日の関東大震災Click!だった。
 
 冒頭の写真は、1923年(大正12)の夏に撮影された開発中の近衛町だ。手前に三間道路と思われる道が通い、いかにも開発途上らしく土の凸凹路面には工事の資材を馬車で運ぶためなのだろう、何枚もの板が渡されているのがとらえられている。画面の右手に写る西洋館には、このサイトを読まれてきた方ならすでに既視感があるだろう。あめりか屋の普請で1923年(大正12)、つまりこの記事が書かれたころに竣工した、下落合414番地の角地に建っていた小林盈一邸Click!だ。近衛町を南北に走る三間道路の十字路のひとつ、現在の街並みでいえば目白ヶ丘教会Click!の十字路の北寄り、おそらく空き地から北東を向いてシャッターが切られている。門柱の位置をはじめ、外壁の塗装やデザイン、切妻の形状、北側へ大きく張り出したトイレや風呂場(1F)および納戸(2F)の2階建ての風情が、小林盈一邸の間取図にピタリと一致する。
 小林盈一邸からやや離れた左手、つまり北側に見えている邸は、中央のスペースが少し空きすぎているので伊東邸ではなく、島津マネキンで有名な大きめの島津良蔵邸Click!の姿なのかもしれない。道路が湾曲するほどの広角レンズを、カメラに装備して撮影されているようなので、その公算が高いように思われる。記事にもあるように、敷地は売れているにもかかわらず、いまだ未着工の住宅が多い当時、小林邸の北隣りである伊東邸はいまだ建設されておらず、さらに北に建っていた島津邸を望んでいる可能性がある。そして、カメラマンが立っている左手、画面の左枠外には、近衛旧邸Click!(近衛篤麿Click!邸)の玄関前に設置されていた馬車廻し(車廻し)の、いまだそれほど成長していない双子のケヤキClick!が、道路の中央に見えているはずだ。
 
 もうひとつ、この記事には「林泉園」Click!について興味深い記述が見られる。東邦電力によって開発された近衛新町には、当時、洋館形式の社宅がすでに20棟ほど完成しており、北側の谷戸のみならず住宅地の一帯が「林泉園」と呼ばれていたことを示唆する記事表現だ。すなわち、箱根土地が目白文化村のことを、当初は「不動園」(のち箱根土地本社の庭園名称に転化)とネーミングして販売したのと同様、東邦電力は同住宅街の敷地を「林泉園」とネーミングしていた公算が高い。それが時代を経るにしたがって、近衛新町の北側に口を開けた谷戸の名称へと定着していったのではないだろうか。また、明治末に若山牧水Click!が散歩で立ち寄り、『東京の郊外に思ふ』へ記録した「落合遊園地」という名称は、この時期にはすでに用いられていないのがわかる。
 さて次回は、近衛町に接して約2万坪という落合村最大の敷地を所有し、1923年(大正12)には落合村税収の約50%を納めていた、相馬孟胤邸が建つ「御留山」の夏を見てみよう。

◆写真上:1923年(大正12)7月に撮影された、近衛町の小林盈一邸(右)と島津良蔵邸?(左)。
◆写真中上:同年7月16日発行の読売新聞より、「市を取巻く町や村(15)」のルポ記事。
◆写真中下:左は、1923年(大正12)ごろに建設された小林邸。右は、冒頭写真の撮影ポイント。
◆写真下:近衛町の撮影現場で、小林邸門前あたり(左)と近衛旧邸の双子のケヤキの現状(右)。