下落合で渡辺巡査を射殺Click!して姿を消した前科6犯・中村一平は、そのあと次々に発砲事件を起こし、そのつど警官や市民の被害者が増えていく。「ピス平」が次に現れたのは、下落合から遠く離れた湯島天神の境内だった。足どりからすると、下落合から神田川沿いをお茶の水方面へと逃走したようだ。ここでも、声をかけて誰何(すいか)した巡査が撃たれている。
 湯島の事件は、1928年(昭和3)9月12日(水)のちょうど昼飯どき、午後12時40分ごろに発生した。本郷区にある本富士署(現・文京区本郷7丁目)の原冬至巡査が、ベンチに座る不審な男へ声をかけると、いきなり拳銃で胸と腹を撃たれたのだ。その様子を、翌1928年(昭和3)9月13日発行の、東京朝日新聞(前日午後2時半締め切り記事原稿)から引用してみよう。
  ▼
 十二日午後零時四十分頃本富士署詰め巡査原冬至氏(三七)が本郷区湯島天神の境内を巡行中年齢四十五六歳位で『丸虎』と染め抜いた印半天を着用した一見労務者風の男の挙動が怪しいのですゐ何取調べようとするや怪漢は巡査の隙をうかゞひ突如懐中からピストルを取だしてごう然三発を発射して同巡査を撃ち巡査が血に染まつて倒れるのを見るやそのまゝ人ごみにまぎれて逃走した、(中略) 原巡査を直に大学病院にいれ手当を加へたが弾丸は胸と腹部にそれぞれ一ヶ所命中し生命危篤である、犯人の見当は今のところ不明であるが十日払暁市外戸塚署管内で渡辺巡査を射殺した犯人中村一平の行方が判らず目下その行方を捜査中であるひは右一平が市内に潜伏労働者風に姿をかへてうろうろしてゐる所をすゐ何されたのでこの凶行におよんだのではないかとも見られ、全市内各署に手配方を打電し非常線を張り大捜査を開始してゐる、何分事件が真昼間であり、しかも賑やかな場所なので天神境内は黒山のやうな人だかりである
  ▲
 湯島天神の発砲事件が、まさに昼休みの時間帯だったせいで、原巡査が撃たれた境内にはたくさんの人たちが休憩あるいは散歩をしていた。だから、必死で逃げまわる「ピス平」を追いかけるのは、急報で駆けつけた警官隊ばかりでなく、湯島界隈をたまたま通行中だった市民たちと、さらに下谷周辺で合流した大勢の人たちが大群衆となって、拳銃を所持した犯人を追跡するという前代未聞の事態となってしまった。一時、「ピス平」は湯島天神の北側にある岩崎邸Click!へ逃げこもうとしたが、邸沿いに設置された請願交番の警官に阻止されてあきらめている。

 
 記事にも書かれているが、追跡している街の人たちが乗る自転車のタイヤがパーンとパンクするたびに、警官隊が音のした現場へと急行するため、しまいには大混乱のうちにわけがわからなくなってしまったようだ。犯人の逃走経路は曖昧だったが、どうやら不忍池Click!方面へ逃げこんだものと推定され、付近に一大包囲網が敷かれた。しかし、多数の警官が不忍池界隈を取り囲む中、「ピス平」は警官隊の壁をたくみにすり抜けて上野山Click!へと逃走している。
 相次ぐ発砲事件と警察の重なる失態に、付近の住民たちは「警察に任しちゃおけない」とばかり追跡隊が編成されるなど、騒ぎや混乱はどんどん大きくなっていった。そして、警察はついに東京市街地に設置された70余の警察署に全員非常召集をかけ、「千数百人」の刑事たちが下谷・上野地域へ結集するという大騒ぎにまでなった。そんな混乱する街中で、またしても発砲事件が発生する。9月13日発行の東京朝日新聞に掲載された、前日12日の続報から引用してみよう。
  ▼
 犯人一平の行方ようとして分らなくなり全市警察署が全力を挙げて必死の捜査をやつてゐる真最中捜査本部から程遠からぬ本郷区龍岡町二九浅草仲店(ママ)売店人山田作次郎方の庭の植込み中に怪しい一人の男が潜入してゐるのを同家の使用人佐野信次郎(六四)が発見(、)てつ切ピストル犯人と見込みをつけ大胆にも老人は足音を忍ばせてそばに接近し矢庭に組つき組伏せようとして同家の玄関先まで引ずつて来たのを同様同家の雇人白戸口幸七(二一)がコリヤ大変だと家の中から飛び下りいきなり怪漢の頭を一つなぐりつけ信次郎と一緒になつて組伏せようとするせつ那、怪漢は両人の隙を見つけると共にポケツトの中からピストルを取だしごう然一発発射した、力一杯に怪漢を組伏せ様としてゐた幸吉はその弾丸に胸板を打ち貫かれ(ママ)血に染まつて打倒れた、この有様に信次郎はぼう然自失の体に陥つてゐる隙を見るや犯人はそのまゝ闇にまぎれ同家のへいを乗り越えて逃走した
  ▲
 64歳の「老人」が、犯人へいきなり組みついたのもすさまじいが、加勢して胸を撃ちぬかれた雇用人の若者こそ気の毒だ。街をあげての犯人追跡劇の真っ最中だったせいで、この「老人」も気分が高揚し、むこうみずにも勇みだってしまったのかもしれない。昼間、湯島天神で撃たれた原巡査と、浅草仲見世売店の雇用人であるこの若者は、幸いなことに帝大病院で生命はとりとめている。こうして、またしても「ピス平」はどこかへ姿をくらましてしまう。「ピス平」が目撃されるたびに、ちがった服装や風情へ小まめに変装している点が興味深い。そのつど、どこかで盗んで調達した身なりに着替えているようなのだ。だが、ほどなく逮捕の瞬間が訪れようとしていた。

 
 9月12日の深夜、寿司屋の主人に化けた「ピス平」が、不忍池の観月橋を渡ろうとしたところ、付近を警戒中だった高橋和一巡査が怪しんで呼び止めたのがきっかけだった。観月橋は、不忍池の中央を横断できる、1907年(明治40)に開催された勧業博覧会を記念して建造された橋だが、昭和初期に撤去されて現存していない。高橋巡査は、男へ近寄るとポケットをまっ先に押さえ、「ピス平」に拳銃を抜かせる余裕を与えなかったのが幸いした。こうして犯人の中村一平は、下落合の発砲事件からおよそ48時間後に、ようやく逮捕された。逮捕時、「ピス平」はいまだ15発の弾丸を所持していた。逮捕の瞬間の模様を、同9月13日発行の東京朝日新聞から引用してみよう。
  ▼
 将に十二日午後十一時二十五分、白シヤツに半ズボンをはいた労働者風の男が今しも橋の上を渡り切らうとしてゐるのに相会し一旦やり過ごした後突然後向きになりよく見るとシヤツの背中のところが破れてゐるのが如何にも怪しいので「オイどこにゆくのだ」とすゐ何すると私は湯島天神下町のすしやの主人ですが余り暑いから散歩に出て来たと落ついた物いひ振りであつたが巡査はすかさず直ぐ左のポケツトを押へ、今度は右のポケツトに手をやらうとするとピストルが手に触れた、その瞬間怪漢は身構へ向き直つて来たが巡査は右ポケツトをシツカト握り、足をかけてねぢ伏せようと機敏にも後方に回り右ポケツトとお尻を押へながら大声を発したところ折よく付近に来かゝつた上野署の下山由太郎(三七)刑事と制服の今泉泰平(二八)巡査が駆けつけたので力を得高橋巡査は直に怪漢を羽がい締にし、他の二人の警官は両手を固く押へ直に捕なはをかけこゝにさしもの凶漢も天命つきて遂に捕へられ上野署に引致されるに至つた
  ▲
 「ピス平事件」にも見られるように、下落合の犯行現場から犯人が逃走するのは、人目が少なく寂しい街のさらに外周域やよその地域ではなく、この時代には、すでに人がもっとも多い賑やかな市街地=都会の真ん中だったことも特徴的な事件だった。事件後、警視庁の宮田総監は「従来この種の事件に対し警官の対応が余りに消極的であるため往々今回の如き不覚や災難に遭遇する」のだから、今後はもっと警官たちが犯人の取り押さえに積極的に行動せよという談話を発表している。だが、拳銃を撃ってくる犯人に対して、武器はほとんどお飾りのサーベルしか持たない巡査たちは、どう「積極的行動に出」られるのだろうか? むしろ、丸腰の高橋巡査が犯人を逮捕できたのは、ほとんど幸運としかいいようのない状況に思えるのだが・・・。

 1928年(昭和3)9月12日の深夜に犯人逮捕で決着した「ピス平事件」は、その後、新聞紙上で続報が大きく取り上げられることはなかった。なぜなら、翌9月13日の午前8時すぎ、ラッシュアワーで満員の中央線の電車が、代々木駅を発車して千駄ヶ谷駅へと向かう途中で脱線転覆し、死傷者を出すという大事故が発生したからだ。

◆写真上:1923年(昭和3)9月13日の読売新聞から、警察車両で連行される中村一平(中央)。
◆写真中上:上は、同年9月13日の午後2時30分締め切りで書かれた、東京朝日新聞の湯島天神発砲事件の記事。下左は、9月12日正午すぎ事件直後の境内の様子で横たわる人物は原巡査だと思われる。下右は、本殿がリニューアルされた現在の湯島天神境内。
◆写真中下:上は、同年9月13日発行の東京朝日新聞に掲載された犯人逮捕の記事。下左は、大正博覧会の絵葉書にみる不忍池の観月橋。下右は、不忍池を上野精養軒の屋上から。
◆写真下:同年9月13日発行の読売新聞に掲載された「ピス平」逮捕の記事。