大正末から昭和初期にかけ、落合地域は東京府の風致地区に指定された葛ヶ谷Click!(西落合)や井上哲学堂Click!などもひかえ、また西洋館が建ち並ぶモダン住宅街や華族屋敷などを見物しがてら、東京市内から散歩にやってくる大勢の人たちで賑わった。ピクニックの遊山客が落としたタバコの火の不始末から、あわや西坂の徳川男爵邸Click!あたりが大火事になるところだった事件が起きている。1928年(昭和3)3月19日に発行された、読売新聞(夕刊)の三面から引用してみよう。
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 ピクニツクの群れ草原五百坪を焼く
 好晴の日曜を徳川男邸付近で楽しむ人の煙草から
 十八日午前九時五十分頃府下、下落合元村(ママ:本村)七〇七徳川義恕男別邸付近は春日和に浮れるピクニツクの人々で賑つたが、煙草の吸殻から発火して草原が燃え出し五百坪あまりを焼き、徳川男別邸の農林にも燃え移つたので遊散(ママ)の老若男女が俄仕立の消防夫となつて必死に消火につとめて大事に至らず消止めたが一時の騒ぎは大変なもので切角(ママ)の遊散(ママ)がメチヤメチヤになつた
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 これほどの規模の火災となると、落合地域に設置されていた火の見櫓のほとんどが、ジャンジャン鐘を打ち鳴らしたのではないだろうか。西坂の徳川邸の農林へも燃え移ったとあるので、おそらく聖母病院Click!が建設される予定地の青柳ヶ原Click!の丘下あたり、不動谷(西ノ谷)Click!の出口一帯に、火災が拡がっていったのだと思われる。当時の徳川邸から青柳ヶ原下あたりにかけての光景は、長野新一が描く『郊外の或る新開地』Click!(1925年)のような風情からは一変し、擁壁工事Click!の進捗とともにかなり住宅の数も増えていただろう。だから、ピクニックの一行ばかりでなく、周辺にいた住民たちも集まって消火に参加したため、早期に火を消しとめられたのだと思われる。

 ピクニック火事の記事のすぐ下にも、下落合の西隣りである上高田地域の火事が報道されている。もっとも、こちらは失火ではなく放火だ。同日の読売新聞記事から、そのまま引用してみよう。
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 借家人の台所に家主が放火
 上高田の小火の原因/上戸塚から引致して取調中
 去る八日午前零時十分府下上高田二八四田丸由松方勝手口から出火したが付近の者が駈けつけ大事に至らず消し止めた(、)原因放火と睨んで中野諸では犯人捜査中十七日午後に至り同家の家主府下上戸塚三六六鈴木藤松(五二)の所為と判明(、)自宅から引致目下余罪取調中
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 家主が自分の貸し家に火をつけるという異常な事件だが、賃貸人との間でトラブルでもあったのだろうか、それとも火災保険が目当てなのか詳報がないのでわからない。この記事は、おそらく9日に報道された事件の続報のはずだが、当時の新聞はよほどの大事件でもない限り、続報はめったに掲載されず報道しっぱなしのままだ。だから、一度新聞で無実の人物が“犯人”扱いされてしまうと、今日とは異なり、世間から貼られた錯誤のレッテルはなかなか剥がれない。誤報道で新聞社を告訴する・・・などということは、一般の庶民には考えられなかったことで、「新聞に名前が載るようにことをした人」というレッテルは、長期間つきまとって離れなかっただろう。
 
 目白通り沿いの商店街でも、火災が起きている。これは現在も同様で、わたしの知りうるかぎりこの15年ほどの間に目白通り沿いの火事は2件、聖母坂沿いでは1件、新目白通り沿いでは2件発生している。特に飲食店などでは、どうしても火気をともなうため発生率が高くなるのだろう。ボヤまで入れれば、件数はもっと増えると思われる。1930年(昭和5)8月9日には、下落合562番地の家具店から出火している。同年8月11日の、読売新聞夕刊から引用してみよう。
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 下落合の火事 十日午前三時五十分頃市外落合町下落合五六二家具商栗島辰次郎方から発火し全焼二戸半焼一戸を出して同四時三十分鎮火、原因は高田署で取調べ中
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 火事や放火の記事だけでは後味が悪いので、最後に面白いエピソードをひとつ。1899年(明治32)に、落合地域にはニホンジカがいた。・・・といっても、野生のシカではなく、どうやら飼われていたものが逃げ出したらしい。1899年(明治32)10月28日発行の、読売新聞から引用しよう。
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 農夫鹿を捕ふ 豊多摩郡落合村字下落合千五百五番地太田勇蔵(三十四年)といへるが一昨日正午頃同郡字観音寺前を通行せしに傍の大根畑に牡鹿(二年)一頭遊び居たるを見て耕作人数名と共に彼方此方(あちこち)に追ひ廻はして漸く捕獲したるも飼主不明にて目下同村七百七十九番地農高田九兵衛方にて飼育し居れりを
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 下落合779番地の高田家は、1926年(大正15)現在では農業をやめたらしく、高田九兵衛の跡を継いだと思われる高田音右衛門が、付近に急増しつづける新築住宅の庭園に樹木を供給する、植木業へ転じていたようだ。ちょうど、七曲坂Click!の下にある石地蔵Click!のあたりに大きな邸をかまえていた。高田九兵衛は迷子ジカを預かって、わざわざ親切に面倒をみてあげているのだけれど、同家に馬が飼われていなければいいのだが・・・。もし、馬がいたりしたら、さっそく口さがない村人たちから、七曲坂の「馬(と)鹿飼いの九兵衛さん」などと言われちゃうにちがいないのだ。

◆写真上:葛ヶ谷(西落合)に隣接して、ピクニックのメッカだった1936年(昭和11)ごろの哲学堂。
◆写真中上:1928年(昭和3)3月19日発行の、読売新聞(夕刊)の三面記事より。
◆写真中下:左は、1932年(昭和7)に撮影された聖母坂。右は、同所の現状。
◆写真下:左は、1930年(昭和5)9月に三井信託不動産部が分譲した下落合字小上のアビラ村(芸術村)物件。右は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる、七曲坂の下で迷子のシカを飼っていた高田九兵衛宅。この時代は、すでに高田音右衛門邸になっている。