今回は、新聞の三面に載るような事件や事故ではなく、1918年(大正7)ごろに落合村で起きていた、日常生活における“困った”出来事をいくつかご紹介したい。読売新聞では、同年に「郊外生活」と題して、東京近郊に展開している町村へ移住した人たちの様子をシリーズ取材している。もちろん記事の性格上、住民たちの名前は明らかにされておらず匿名なのだが、それらの出来事がどの町村で起きていたのかは明記されているのでわかる。
 落合村の“困った”筆頭は、住居不法侵入なのだ。建設したばかりの新築住宅は、生け垣や庭木がまだよく成長しておらず、家の前に空地があるような風情だった。だから、訪問者が玄関での断りもなく、いきなり庭先へ入りこんできたり、近道の通路として利用したりする連中があとを絶たなかったようだ。茶の間で家族が晩ご飯を食べていると、いきなり庭先から郵便配達がためらいもなく現われて、郵便を手渡していく困った様子がレポートされている。
 玄関には郵便受け(ポスト)があるのだろうから、郵便配達は親切のつもりで庭先までとどけているのかもしれないのだが、これではプライバシーもなにもあったものではない。XX家の昨晩のおかず情報・・・とかいったウワサが翌朝、落合村じゅうに流れたかどうかはさだかでないのだけれど。1918年(大正7)5月4日発行の、読売新聞「郊外生活(一)/落合村」から引用してみよう。
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 目白の奧、山手線の外野に当る落合村に移住してゐるK君の話だが、まだ引越して来た当座の事、庭と玄関先とを限ツた植込が垣根の体裁をなしてゐないので、郵便脚夫が門を入つて直接玄関の方へ廻らずに、手取り早くこの疎らな植込を遠慮会釈もなく通過して、庭先から一家中揃つて楽しい晩餐に舌鼓をうつてゐるところへ、「郵便!」と一声見舞はれるには閉口するさうだ、又裏の某別荘の火の番が序でに近所をまわつて呉れるのは有りがたいが、通行自在な庭先をチヨンチヨンやりながら、宵のうちから「表の木戸が閉まつてゐません」なんかんと注意して行くのにはたゞもう恐縮する外ないとの事である。
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 1918年(大正7)という年代からすると、堤康次郎Click!が東京府へ土地を寄付して建設された落合府営住宅Click!の、第一号地(落合第一府営住宅)か第二号地(落合第二府営住宅)あたりではないかと想像できるのだが、いまだ目白文化村Click!や近衛町Click!といったモダンでオシャレな住宅街が、影もかたちもないころのエピソードだ。


 また、落合村へ移住してきた都会人たちの中には、市街地へ勤めに出るかたわら、きれいな空気の中で田畑を耕しながら、ある程度の自給自足的な生活にあこがれていた人たちもいた。近所の地主から、家族が耕せる広さの土地を借りて、出勤する前の早朝や帰宅してから陽が落ちるまで、畑仕事に精を出す都心からの移住者たちの姿が記録されている。このような傾向は別に大正時代でなくても、東京近郊の「家庭菜園」や「週末農家」といったスタイルで、現在でも東京ではよく見聞きする現象だ。大正期には、都市部における結核の蔓延も大きな社会問題となっていたので、その恐怖から逃れ近郊の清んだ空気の中で畑仕事をしながら身体を鍛えるのは、結核に罹患しないための予防効果も期待されてのことだろう。
 それから、もともと落合村に住んでいた人たちと、市街地から引っ越してきた新しい住民たちとの間では、いろいろな軋轢が生じている。以前にも記事にしたが、落合村はもともと別荘地あるいは華族の屋敷街として明治以降は開けていった土地柄だ。だから、暮らしやすい住環境を維持するのが落合村の「村是」Click!であり、排煙をともなう工場などの進出はいっさい認めなかった。新住民たちにしても、せっかく東京近郊の緑が多く美しい風情の中に建てたモダンな西洋館で暮らしながら、工場の煤煙が飛んできたり騒音がどこからか流れてきたりするのは許せなかったのだろう。でも、旧住民にしてみれば工場が進出してくれたほうが、働き口が増えてありがたかったのだ。そのあたりの事情を、1918年(大正7)5月8日発行の読売新聞、「郊外生活(三)/落合村」から引用してみよう。
 
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 土着の農夫たちは、郊外の清新な風光にあこがれて移住して来る連中を余り喜ばない(。) それよりもより以上の利得がある工場等の出来るのを切に希望してゐるのだが、一方移住して行ツた連中の方では、工場が出来るやうになつては折角の郊外生活を台なしにされてしまふので、此の処双方暗々裏に反目してゐる訳、従つて移住民一同も彼等に対して相当の権威を示さねばならず、某華族の殿様なぞは親(みずか)ら村役場まで村会議員の投票に出掛けるといふ騒ぎ、それでも某陸軍中尉殿が村会議員に選挙されてうつて出たはよいが、何分にもたつた一人といふ小数党(ママ)では如何とも策の施しやうがない。
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 1918年(大正7)に、すでに落合村に住んでいた「某華族の殿様」とは、おそらく相馬孟胤Click!子爵のことだと思われる。徳川家Click!や近衛家Click!のことだったら、おそらく「殿様」とは表現しないだろう。「殿様」が、村会議員選挙へわざわざ投票に出かけたところをみると、新住民を代表してデモンストレーションを行なったものとみられる。
 ひょっとすると、落合地域を東京でもっともモダンでハイカラな住宅街にしようと企図していたらしい川村辰三郎Click!村長が、旧住民からの反発を少しでも抑えて弱めるために、相馬家へ依頼して「別荘・住宅地化推進」議員候補へ投票する姿を、これみよがしに見せつけたかったのではないだろうか? また、記事に登場している陸軍中尉というのが、おそらく旧住民たちに推されて村会議員に立候補した、地元出身の「工場誘致推進」議員候補ではないかと思われるのだ。

 1923年(大正12)に関東大震災Click!が起きるまで、この旧住民と新住民との間の軋轢は目立ってつづいていたようなのだが、大震災を境に都市部から押し寄せてくる圧倒的な新住民たちを前にして、旧住民たち(多くは地付きの農家)もそれまでの意識を変えざるをえない必要に迫られていく。旧住民たちは、工場を誘致して働き口を増やそうとする兼業農家などではなく、大正期の最先端をいく大人気のモダンな住宅街の地主Click!へと、自身がいつの間にか変貌していたからだ。

◆写真上:下落合に残る元農地の草原のひとつで、近くに住む子どもたちの格好の遊び場になっている。この日は、目白文化村の下落合みどり幼稚園Click!が借りて園児たちが遊んでいた。
◆写真中上:上は、まだ生け垣が育たない庭先まで入り、食事中の住民へ郵便をとどける配達夫。下は、1921年(大正10)の「新井1/10,000地形図」にみる目白通り沿いの落合府営住宅。
◆写真中下:左は、郊外にあこがれて移住し落合村の畑を耕す都会人。右は、1932年(昭和7)に撮影された落合町役場。落合村役場も同所にあり、たいして違いはなかっただろう。
◆写真下:村議会議員選挙の日、村役場の投票所へと向かう「某華族の殿様」。